読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

野口米次郎「北斎の富士」(From the Eastern Sea 1903『東海より』より)

北斎の富士

その神聖な息吹(いぶき)に触れ、
私共は神の姿に帰る。
その沈黙は即ち歌、
その歌は即ち天国の歌だ。
今熱病や憂苦の陸土は
すずしい眼の平和の家と変る、
ただ死ぬべく生まれる人間の陸土から、
私共は遥か離れた平和の国に入る。
ああ、私共は
富士の壮麗に触れ、
神の誇りとして富士を歌ひ、
私共の影をその胸の中に封じこむ………
ああ、富士は香(かぐ)はしい永久の存在だ、
白い顔の驚異だ、
無比の光景だ、
何たる荘厳! 何たる美よ!
千の河水はその額に
富士の姿を載せて走る、
有らゆる山は、さし来る潮のやうに、
その頭をあげて富士を礼拝する………
恰(あたか)も最後の命令を待つかのやうに。
見よ、日本を囲繞(ゐねう)する海は、
富士の影を眺め、
恰も詩を見るもののやうに、
平和の奏(かな)でる催眠歌に揺られ、
飢餲の歌や野狼の欲を失ふであらう。
私共は富士をめぐつて、死の一字を忘れる………死は甘い。
生は死よりも更に甘い。
私共は人間であると同時に神だ、
富士の無邪気な友人だ、
ああ、永遠の富士よ、私は礼讃する。

(From the Eastern Sea 1903『東海より』より)

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.018