読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 中』その5

妄念が主役となるがゆえに、浄化、鎮魂、魂鎮めがクライマックスとなる。思いつめてしまうのは怪しい世界に通じる道。

 

【定家】
定家の執心がこもる定家葛に呪縛された式子内親王の霊の語りと成仏の劇

式子内親王始めは賀茂の斎の宮に備はり給ひしが ほどなく下り居させ給ひしを 定家の卿忍び忍びおん契り浅からず その後式子内親王はどなく空しくなり給ひしに 定家の執念葛となつて御墓(ミハカ)に這ひ纏ひ 互の苦しみ離れやらず ともに邪婬の妄執を おん経を読み弔ひ給はば なほなほ語り参らせ候はん

 

【天鼓】
勅命に背いて鼓を隠し処刑された天鼓の弔いと舞楽の劇

あらありがたのおん弔ひやな 勅を背きし天罰にて 呂水(ロスイ)に沈みし身にしあれば 後の世までも苦しみの 海に沈み波に打たれて 呵責の責めも隙(ヒマ)なかりしに 思はざる外(ホカ)のおん弔ひに 浮かみ出でたる呂水の上 曇らぬ御代のありがたさよ

 

【東岸居士】
芸能説法者東岸居士の語りと舞の劇

行くは白川 行くは白川の 橋を隔てて 向ひは 東岸 こなたは 西岸 さざ波は 簓(ササラ) うつ波は 鼓 いづれいづれも 極楽の 歌舞の菩薩の 御法とは 聞きは知らずや 旅人よ旅人よ あら面白や

 

道成寺
山伏相手の成就できぬ恋のためについには大蛇となった女を道成寺の僧が祈り伏して退散させる劇

さてかの女は山伏を逃すまじとて追つかくる 折節日高川の水もつてのほかに増さりしかば 川の上下(かみしも)をかなたこなたへ走り廻りしが 一念の毒蛇となつて 川を易々と泳ぎ越し この寺に来たりここかしこを尋ねしが 鐘の下りたるを怪しめ 龍頭を銜へ七纏ひ纏ひ 炎を出だし尾をもつて叩けば 鐘はすなはち湯となつて 終に山伏を取り畢んぬ なんぼう恐ろしき物語りにて候ふぞ

 

【道明寺】
天満宮白大夫神が社の縁起を語り舞う劇

げにありがたや草も木も げにありがたや草も木も みな成仏のこのみまで 珠を連ぬる光かな 枯れたる木にだにも 誓ひの花は咲くぞかし ましてえやあ面前木槵樹(モクゲンジュ) 花咲き実生る御覧ぜよ げにや花咲き実生るなる 梢の色もあらたにて 法を称ふる理りを おもひのたまの おのづから あの梢の実こそ この数珠のみのりなれ

 

【融】
融大臣の霊が往時の風流を思い返し語り舞う劇

融の大臣(オトド)と申しし人 陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞こしめし及ばれ 都の内に移し置き あの難波の御津(ミツ)の浦よりも 日ごとに潮(ウシオ)を汲ませ ここにて塩を焼かせつつ 一生御遊(ギョイウ)の便りとし給ふ しかれどもその後は 相続して翫ぶ人もなければ 浦はそのまま干潮となつて 池辺(チヘン)に淀む溜り水は 雨の残りの古き江に 落葉散り浮く松蔭の 月だにすまで秋風の 音のみ残るばかりなり

 

【朝長】
源朝長の霊が語る己の最期

死の縁の 所も逢ひにあふはかの 所も逢ひに青墓の 跡のしるしか草の蔭の 青野が原は名のみして 古葉(フルハ)のみの春草は さながら秋の浅茅原(アサジワラ) 荻の焼原(ヤケワラ)の跡までも げに北邙の夕煙 一片の雲となり 消えし空は色も形も なき跡ぞあはれなりける 亡き跡ぞあはれなりける

 

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伊藤正義
1930 -2009