読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 中』その4

いま、春一番が吹いている。歌は出てこないので、相も変わらず本を読む。


好き嫌いは別にして、日本文芸の通奏低音として天台本覚思想やアニミズムが流れていることは逃れようのないことなのだと思う。「有情非情のその声 みな歌に洩るる事なし 草木土砂(ソオモクドシャ) 風声水音(フウセイスイオン)まで 万物の籠もる心あり 春の林の 東風(トオフウ)に動き秋の虫の 北露(ホクロ)に鳴くも みな和歌の姿ならずや」(【高砂】より)

 

【大会】
天狗の霊力の放縦な使い方に帝釈天が折檻を加える劇

それ山は小さき土塊(ツチクレ)を生ず かるがゆゑに高きことをなし 海は細き流れを厭はずゆゑに 深きことをなす 不思議や虚空に 音楽響き 不思議や虚空に 音楽響き 仏の御声 あらたに聞こゆ 両眼を開き あたりを見れば 山はすなはち 霊山(リョオゼン)となり 大地は紺瑠璃 木はまた七重 宝樹となつて 釈迦如来獅子の座に 現はれ給へば 普賢文殊 左右(ソオ)に居給へり

 

【当麻】
中将姫の精魂が念仏行者に語り舞う当麻寺の縁起と弥陀讃美の劇

世阿弥の却来の思想が謡曲のなかでも少し触れられる「当麻」

われ娑婆にありし時 称讃浄土教 朝々時々(チョオチョオジジ)に怠らず 信心誠なりしゆゑに 微妙(ミミョオ)安楽の結界の衆となり 本覚真如の円月に座せり 然れども ここを去る事遠からずして 法身却来(ホッシンキャクライ)の法味ををなせり

 

高砂
高砂と住吉の松の精の神舞

山川(サンセン)万里を隔つれども 互に通ふ心遣ひの 妹背の道は遠からず まず案じても御覧ぜよ 高砂住吉(スミノエ)の 松は非情の物だにも 相生(アイオイ)の名はあるぞかし ましてや生(ショオ)ある人として 年久しくもすみよしより 通ひ馴れたる尉(ジョオ)と姥(ンバ)は 松もろともにこの年まで あひおいの夫婦となるものを

 

【忠度】 
忠則の霊が語る和歌への妄執。

さなきだに妄執多き娑婆なるに なになかなかの千載集の 歌の品(シナ)には入りたれども 勅勘(チョッカン)の身の悲しさは 読み人知らずと書かれしこと 妄執の中の第一なり されどもそれを撰じ給ひし 俊成さへ空しくなり給へば おん身は御内にありし人なれば 今の定家君(テイカキミ)に申し しかるべくは作者を付けてたび給へと 夢物語申すに 須磨の浦風も心せよ

 

【龍田】
龍田明神(龍田姫)の舞と語りの劇

山も動ぜず 海辺(カイヘン)も波静かにて 楽しみのみの秋の色 名こそたつたの 山風も静かなりけり しかれば代々(ヨヨ)の歌人(ウタビト)も 心を染めてもみぢ葉の 龍田の山の朝霞 春は紅葉にあらねども ただ紅色(コオショク)に愛で給へば 今朝よりは 龍田の桜色ぞ濃き 夕日や花の 時雨なるらんと 詠みしもくれなゐに 心を染めし詠歌なり

 

【玉鬘】
玉鬘の妄執の語りと成仏の劇

げに妄執の雲霧の げに妄執の雲霧の 迷ひもよしや憂かりける 人を初瀬の山颪 烈しく落ちて露も涙も 散りぢりに秋の葉の身も 朽ち果てね恨めしや 恨みは人をも世をも 恨みは人をも世をも 思ひ思はじただ身ひとつの 報ひの罪や数かずの うき名に立ちしも懺悔の有様 あるいは湧きかへり 岩洩る水の思ひに咽(ムセ)び あるいは焦がるるや身より出づる たまと見るまでつつめども 螢に乱れつる 影もよしなや恥づかしやと この妄執を翻す 心は真如のたまかづら 心は真如の玉鬘 長き夢路は覚めにけり

 

【田村】
坂上田村丸の凶徒との戦いの語りと千手観音鑽仰の劇

あれを見よ不思議やな 味方の軍兵(グンビョオ)の旗の上に 千手観音の 光を放つて虚空に飛行(ヒギョオ)し 千の御手(ミテ)ごとに 大悲の弓には 智恵の矢をはめて 一度(ヒトタビ)放せば千の矢先 雨霰と降りかかつて 鬼神の上に乱れ落つれば ことごとく矢先にかかつて 鬼神は残らず討たれにけり