読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

谷川俊太郎『ベージュ』(新潮社 2020)米寿の記念の詩集、生成の色の冷えた輝きにしずかに撃たれる

八十八歳になる日本語詩人がこころのうごきを書き留めた詩篇、31篇。生きることの哀感がこころの底を流れるなかで、凛として折れも萎れもしない姿勢がうかがわれる。楽園というにはほど遠い世界のなかで。「本音」を言い当てられているようなことばの数々に、ただただ呆然としてしまう。尊敬と嫉妬に加えて、寄る辺のなさが想いを占領する。ずっとボーっとしている訳にもいかないので、毎日繰り返し読むようにして過ごしていたが、二週間の図書貸し出し期限が迫ってきたので、自分なりにどうにか区切りをつけようと考えた。谷川俊太郎『ベージュ』は記念碑的な作品になる。すくなくとも私にとっては。効き目の長続きすることばたちとして残っていくであろう予感がする。

蛇口 (部分)

地球を覆うデジタルの恩恵に今日も
米寿の男は沐浴している
本音が幻の原始林に木霊する
ヒトは皆神っぽい遺伝子をもっている

逃げたいのではないかと思う
無名が許されない言葉の世界から
ただそこにあるだけなのに
あるだけではすまない全てから

 

 「ただそこにあるだけ」でよく、「あるだけではすまない全てから」逃げること迂回することを想像すると、それはそれで畏れと空しさを、現在と未来に感じる。楽園であればなにはなくともすべては満たされているだろうが、商品経済の世界では「ただそこにあるだけ」ではすまないし、「ただそこにあるだけ」をよしと考えた時には自分のやっていることの価値が暴落する。いい文芸作品に出会ったときにはままあることだけれど、作品に引きずられて仕事に身が入らなくなるので、対抗策として、谷川俊太郎の『ベージュ』の世界を構成している商品、通貨が関係しないと成り立たないであろう存在物をピックアップしていくことで、現在の世界の状況を再確認してこころを落ち着かせてみる。

うた、 ロケット、 戦、 窓、 建物、 サプリメント、 朝刊、 ミルク、 紅茶、 机、 本、 訳、 財布、 音楽、 活字、 数学、 物理学、 旅、 チャイ、 椀、 蛇口、 コップ、 水、 テラス、玄関、 チャイム、 墓地、 バイオリン、 ピアノ、 階段、 材木、 竣工式、 白紙、 母校、 靴、 踊り場、 理科室、 屋上、 手すり、 広場、 旗、 ヘッドフォン、 プラカード、 鉱石、 能楽、 電車、 ドローン、 サクランボ、 麦藁帽子、 橋、 議会、 台所、 ウェブ、 チェンバロ、 ラジオ、 珈琲、 床、 薬莢、 タオル、 写真、 銃弾、 ブログ、 勲章、 原子炉、 日刊紙、 花束、 マシン、 バーコード、 紙袋、 アナログメータ、 宇宙船、 キャベツ畑、 ワンピース、 シーツ、 ビン、 団地、 保育園、 帽子、 汽車、 座席、 銃、 駅、 売店、 新聞、 ビル、 線路、 ベンチ、 影絵芝居、 人形、 布団、 レアアース、 通貨、 金融業、 牧場、 競走馬、 軽自動車、 画廊、 画布、 レコード

上記のものなしで済ませられる世界というのは、現時点ではまあ成り立たない世界であるので、分業で商品を生産し、賃金を得て商品を消費するという循環は、生活のベースにあるもの、こころを成り立たせこころが動かいても構わないようにするために必要な回路ということを再確認しておいた方がよい。その上で、「ただそこにあるだけ」でよく、「あるだけではすまない全てから」「逃げたい」という「本音」をとりあげた詩を味わい直し、たんに逃げるのではない次善の策にも思いをめぐらす。自分がとれる選択肢はあるだろうかと。いま、私の仕事に関係しているのは、ウェブ、マシン、バーコードといったところ。それ以外のものに関係し、世界を成り立たせることはすぐには難しいことなので、いままでをつづけながら、本や詩を読むことで、本や詩がある世界に微力ながら協力しつつ、次のこころの動きを待つ。いまできるのは、そんなところ。


谷川俊太郎
1931 -