読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』( 原書1948 河出文庫 2006 )「器官なき身体」を「腑抜け」が読む

アルトー最晩年のラジオ劇『神の裁きと訣別するため』関連の文章(宇野邦一訳)と『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』(鈴木創士訳)の最新訳カップリング。

心身の不調と経済的苦境によって死にまで追い詰められた二人の人物。近い親族にいたとしたらやはり手を焼くだろう。ゴッホが亡くなってから130年、アルトーが亡くなってから72年、精神科の治療法や薬はおそらく改良されているだろうし、収入や作品配信の道もグローバルなネットワーク環境が出来ている今の時代、芸術家自身で切り開いていけることも多くなっているだろうと考えると、社会に対するアルトーの激しい呪詛も少し違ったものになっていたかもしれないし、ゴッホアルトーのいくつかの作品自体が生まれてくることもなかったかもしれない。激しい強度の言葉に全面的には乗れないなあと思いながら読んでいるとそんなことをつい考えてしまう。

アルトー『神の裁きと訣別するため』には、その後ドゥルーズ=ガタリが独自展開することになる「器官なき身体」をはじめて提示した作品。もとは、よりよく生き、舞踏するためには消化器官や生殖器官は不要だというアルトーの叫びのなかで生まれた言葉。

 

しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。

そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
まるで舞踏会の熱狂のようなもので
この裏とは人間の真の表となるだろう。
(『神の裁きと訣別するため』p45)

 

アルトー、そしておそらくはゴッホも熱狂を求める人で、「器官なき身体」を希求する人であったろうと思う。真実のコミュニティーを作り生きるという志向性を持った人物類型に入るのではないだろうか。旗振り役として熱狂を求める人物がいることは理解可能だし、とても興味深くはあるが、つねに一緒にいるのはキツイのではなかろうか。言語も行動もつねに強烈であれば、アルトー的な「器官なき身体」に近づこうとすることにも無理が出てくる。遠くから驚嘆の眼差しをもって見ているくらいがちょうどよい。熱狂よりも平穏にひらひらと踊るくらいがほどよいと考える私のようなメランコリー型の人間、精神科医木村敏の分類でいえば「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」型の人間には「器官なき身体」というよりも日本的で日常的な「腑抜け」の刷新版身体とそれにあった精神のようなサンプルが出てきてくれると親しみが持てる。あまり適当な人が思い浮かんでは来ないのだが、紀貫之とか良寛あたりがそうだろうか。近代的人物だと、エリート街道からドロップアウトしながらも売ることもあまり考えずに絵を描きつづけた熊谷守一など参考にできるかもしれない。力を抜いて性別も超えて生活からもいくぶん遊離して踊ってすごしているようなところがないだろうか。

 

アントナン・アルトー
1896 - 1948
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
1853 - 1890
宇野邦一
1949 -
鈴木創士
1954 -