読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】27. 表象 存在の本質としての対象性、表象されていること

存在の本質が、表象であり思惟であるということをストレートに論じているハイデッガーの論考にしては珍しい部分。ニーチェ力への意志が出てくる前提としての哲学の歩みをプラトンイデアデカルトのコギト―カントのカテゴリーと辿っている。

形而上学の終末
存在者への関わり合いと存在への関与 存在論的差異
ア・プリオリとしての存在
イデアとして、アガトンとして、条件としての存在
存在をイデアとする存在解釈と価値思想

 

カントの形而上学的な根本的境涯は、カント自身が《純粋理性批判》のなかで彼の形而上学の基礎づけの最高命題として規定している命題(第一版一五八頁、第二版一九七頁)で言い表されている。その命題はこうである――
 「経験の一般の可能性の条件は、同時に、経験の対象の可能性の条件である」。
ここで明確に且つ基準的に《可能性の条件》という称号を与えれているものは、アリストテレスとカントが《カテゴリー》と名づけていたもののことである。この名前について前に示した解説によれば、カテゴリーという名前で指されているものは、存在者たるかぎりの存在者の本質的規定であり、すなわち存在性、存在であり、プラトンが《イデア》として把握していたものである。存在とは、カントによれば、存在者の可能性の条件であり、存在者の存在性である。(中略)確実性が真理の本質を規定する。真の根拠は、(前に立てる)表象であり、すなわち ego cogito という意味での、言い換えれば cogito me cogitare という意味での《思惟》である。対象の《表象されていること》としての真理、客観性としての真理は、主体性のうちに、すなわち自分を表象する表象のうちにその根拠をもっている。しかしそれというのも、表象そのものが存在の本質だからである。
(「存在をイデアとする存在解釈と価値思想」p504 太字は実際は傍点)

思惟し表象するものが前提としてある 形而上学

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋
1929 -