読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

頼住光子『正法眼蔵入門』(角川ソフィア文庫 2014)分節化した世界からの「脱落と現成」

2005年にNHK出版から刊行され、いまは絶版となってしまっている『道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか』の増補改訂版の著作。全128ページの論考が231ページまで分量的にはほぼ倍増され、研究の深まり、論旨の繊細さもずいぶん増したように感じた。説明のために添付された著者作成の図も、おおくの情報が盛り込まれたうえで綺麗に整理されているので、おおいに理解の助けになってくれている。第四章「「さとり」と修行」の「脱落と現成」あたりが、道元の仏教の解説としてひとつのピークを作っていると思う。

禅における「さとり」とは、存在がそれぞれ孤立して固定化された要素としてとらえられるような日常的な意味の枠組みがすべて崩壊し、眼前の「花」が「花」ではなくなる「空そのもの」の体験であるが、さらに、そこに立脚して、再び、「空」を「花」として意味づける行為をとって「さとり」は貫徹される。「空」から「花」を立ち現われさせることによって、修行者は再び世界へと還帰する。このような「さとり」のありかたを、この「本無華なりといへども、今有華なる」という言葉は語っているのである。
(第四章 「さとり」と修行 「脱落と現成」p118 )

言語によって分節化され固定化されてしまった世界のもとにある根源的な相対性を透視して、無分節のカオスの世界を「空」として垣間見る。そのうえで「空」の渾沌から再び分節化された言語の世界に舞いもどり、意味を洗い直すという「脱落と現成」の往還の運動を仏教の「さとり」の姿として描出している。『正法眼蔵』の「空華」巻を対象としたすぐれた読み解きをはじめ、本書の各章の内容は非常にわかりやすく、しかもあまり宗教臭を感じさせないところが心地よい。

ところで、このように道元の「さとり」の世界を明快に解き明かしている頼住光子は悟っているのか。専攻が日本倫理思想史の大学教授で、これまでの勤め先に仏教系の大学もないので、仏教の宗派の考えからみれば悟ってはいないのであろう。僧から僧への直接伝授の伝統からいえば悟りの系列からは外れているかもしれない。ただ、これほど解脱(道元の言葉でいえば脱落)とそれに関わる僧同士の問答の有りようを正しく描出し、しかも神秘化も特権化もせず、中庸中正に教えを伝授しているという点では、僧よりも僧的役割を果たしているような印象を受ける。救いの道を示し与えるのが宗教の働きであるとするなら、仏教学の知的アプローチは大乗の救いとは違う道を行っていると考える方がいいだろう。しかしながら「脱落と現成」の尽きることない往還こそ仏教の根底の行であるという知からの教えは、俗にいながら身を軽くするには仏教よりも身近でありがたい。なにより宗派の違いなど考えなくて済むところが気楽だ。

 

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【付箋箇所】
14, 27, 35, 41, 49, 66, 67, 68, 97, 101, 104, 108, 119, 128, 133, 137, s139, 152, 159, 169, 192,

目次:

序 章 道元思想の基底 -『正法眼蔵』巻頭、「現成公案」巻をよむ
第1章 真理と言葉
第2章 言葉と空
第3章 自己と世界
第4章 「さとり」と修行
第5章 時・自己・存在
補論 道元の「仏性」思想
コラム(1) 西洋哲学と道元禅 -「エアアイグニス」と「性起」の間
コラム(2) 道元の死生観
コラム(3) 道元を変えた老典座との出会い
巻末資料I 道元小伝
巻末資料II 読書案内

頼住光子
1961 -
道元
1200 - 1253