読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

井上宏生『<ビジュアル選書> 一遍 遊行に生きた漂泊の僧 熊野・鎌倉・京都』(新人物往来社 2010)決定往生の安心を説き与えつづけた遊行の僧

唐木順三が著書『無常』において高く評価していた一遍が気になり、入門書を手に取る。いずれも「捨てる」ことを説いた鎌倉新仏教の開祖のうち、寺を持たず、捨てようとする心も捨てるにいたったという一遍が、捨てるということにおいてはもっとも徹底していたという旨の記述を思い起こしながら本書を読んだ。

身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみぞめの袖

ビジュアル選書ということで国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)やゆかりの場所の写真などを豊富に用いて一編の生涯を伝えてくれている。そこから浮かび出る一遍の人物像は、無一物の孤独の放浪の僧という姿とは微妙に違っていた。激動の世にあって、出家、還俗、再出家ののち放浪の旅に出ることになった一遍だが、出立の時には還俗時に得た妻の超一と娘の超二と従者の念仏坊の三人を捨てずに連れている。また、全国を遊行するようになった際にも、帰依するにいたった男女数十名の時衆を引き連れているのが常であった。一遍はどちらかというと人間くさく人に好かれるタイプの人物のようで、それゆえ俗情に流されてしまう自分に絶望したことも多々あるのだろうが、極楽往生は決定されているという教えを説きながら念仏札を配るというスタイル、また、引き連れた時衆たちとともにトランス状態にもなった踊念仏という独自のスタイルを考えあわせると、どこかしら楽観的で開放的な精神的一面をもちつづけていた人なのではないかと感じた。あくまで第一印象ではあるのだが・・・

生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

そうは言われても、本当の独りとつれ合いのいるなかでの独りとはやはりかなりの差があるような気がする。
一遍とのファースト・コンタクトはこんな感じで終了となった。

 

目次:
プロローグ 遊行聖・一遍の系譜
第1章 出家・還俗・修行ー俗塵にまじわりて恩愛をかえりみる
第2章 熊野への参篭ー恩愛を捨てて念仏に生きる
第3章 悟りの境地ー衣食住の三は三悪道なり
第4章 布教の深化ー虐げられし者にこそ神仏の恩寵あれ
第5章 踊り念仏の創始ー捨つる心を捨つる、経文も
エピローグ その後の時宗
資料編
 一遍略年譜
 一遍が訪れた主な神社・仏閣
 

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新人物往来社中経出版に2013年に吸収合併


一遍
1239 - 1289
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