読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【モンテーニュの『エセー』つまみぐい】02. 荒木昭太郎訳で 3-9, 1-8, 1-4, 1-1 むなしさが似つかわしくないモンテーニュ

ひきつづき中央公論社『世界の名著 19 モンテーニュ』荒木昭太郎訳。

空しさについて、自分を対象にして思いをめぐらすと、空しさに暴れまわられてしまうので気をつけないといけないと思っている。充実感がないこと、無能さに目が向いてしまうことなど、こうあって欲しいなと思う自分を想像しはじめるといくらでも出て来るので、思い煩いすぎてはいけない。今あるところからの一歩以外に次に取るべき行動などありはしないので、求める行為や比べる行為はほどほどにしておかないと、心はいたみやすくなってしまう。そんなに探っても、あるだけのものしか出ませんよ、それより傷にならないようにご注意をと思ってあげればよかったと、そこそこいたんでから気付く。

三巻九章「むなしさについて」は戦乱の厭わしさや家事の煩雑さに憂いを述べても、無為と余暇と旅の気軽さとすがすがしさ、あるいは未知なるものへの好奇心に関する記述が多くを占め、モンテーニュが空しさを感じている様子はほとんど出てきていない。モンテーニュは空しさを感じる時間を持ってしまうほど暇ではない。好奇心に駆られていろいろ行動することが先に立つため、空虚な時間がぽっかりとあいて、気分を吸い込んでしまうというようなことはない。この鷹揚な行動家は、好きなことを可能な範囲で好きなだけすることで満足することを心得ている。市長の地位についたこともある地方貴族のモンテーニュは、心の貴族でもあったように思われる。ゆとりをなくしていないところに生まれるユーモラスで人好きのする雰囲気もこのエッセイからは読み取れる。

人間はどういう状態に置かれても、たがいに動かしあい、押しつめあって、積み重なり、整列する。ちょうど、秩序もなく袋に投げこまれた不揃いの物体が、おたがいにつながりあい、いい位置を占めあうような仕方を自分たちで見いだし、それがしばしば、ひとが手を出してととのえたりした場合よりもうまくいくのに似ている。

あまりつつきまわすなというところだが、余裕がないときはだいたいむやみにつつきまわす。いま空しいことはあるだろうかとわざわざ探せば出て来るのにきまっているのに、今回探してしまって、暫らく悶えた。人生折り返しを過ぎて、下ることのほうが多くなるので、自分に無意識に鞭打つようなことになるのは避けるように学んでいかなくてはいけない。

つづいて3篇、空しさが主題となっていそうなエッセイも読んだ。

1-8 「何もしないでいることについて」
1-4 「ほんとうの目標がないとき、どれほど魂は偽りの目標にむかってその情熱を吐き出すか」
1-1 「さまざまの方法でひとは同じ結果に到達する」

なにはともあれ、手にあまるような暇な時間をもつのはよくない。小人閑居して不善をなす。モンテーニュが求めた無為や余暇は公職から退き、私人としての時間をもつことを求めたときに出てきた表現で、たんなる暇ではなかった。本を出したり、旅をしたり、やりたいことはいくらでもあった。そして時代の雰囲気とは異なり過激には流れなかったことに特徴があった。


ミシェル・ド・モンテーニュ
1533 - 1592
荒木昭太郎
1930 -