読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

鎌田茂雄 編著『和訳 華厳経』( 東京美術 1995 )中沢新一がレンマ学のベースに据えたいと考えている『華厳経』原典を少しかじる

華厳経の総ルビ付き抄訳。原典の雰囲気を現代語訳で感じ取れる一冊。しっかり読みたい向きには物足りないかも。

 

【解説より】

華厳経』の性起という、あらゆるものが仏性に光り照らされているという考え方は、中国人の古来からの自然観である万物一体観と融合し、それが禅の中に入ると、北宋の詩人蘇東坡によって歌われたように、山川草木も仏の現れとなり、山は仏の相であり、渓流の音は仏の説法だという考え方が生まれてきた。この性起という考え方が『華厳経』のいちばんの中核にある考え方であるといえるのである。(p237)

 

【本文より】

仏は自在なる仏力をもって、衆生の欲と業と果報とに依って、それぞれに真実を見させる。
仏国土に異なった相は無く、如来に愛憎は無い。しかし衆生の行うところに依る故に、それぞれ異なった相に見えるのである。
これは一切の仏やさとりに安んじ住している導師の過失ではなく、無量なる諸々の世界が現しだされた、その相をそれぞれが見るゆえに異なるのである。
一切諸々の世界で仏の教えを受けるものは、常に仏を拝見するのであり、諸仏の法もこれと同じである。
(第2章 「一乗の教え―菩薩明難品」p9)

 

中沢新一のレンマ学の発想のもとに南方熊楠の研究活動がある。顕微鏡を通してみる粘菌の生態に大乗仏教華厳経』の世界を見ていた南方熊楠。粘菌に仏を見ていた熊楠に対して、私は何に仏を見たがっているだろうかとぼんやり考えてみると、研究しているものは特にないのだが、日本語の漢字かな交じり文に仏を見たいかもしれない。一番見ているものだから、そこに現れている仏性を感得してみたいと思っているような気もする。

 

目次:
第1章 仏の正覚(さとり)―世間浄眼品
第2章 一乗の教え―菩薩明難品
第3章 清浄の願行―浄行品
第4章 浄信の功徳―賢首菩薩品
第5章 仏を見る―菩薩雲集妙勝殿上説偈品
第6章 発心の功徳―初発心菩薩功徳品
第7章 唯心の風光―夜摩天宮菩薩説偈品
第8章 最上の妙道―十地品
第9章 如来智慧―宝王如来性起品
第10章 清涼の月―離世間品
第11章 無限の求道―入法界品

 

鎌田茂雄
1927 ― 2001