モンテーニュ『エセー』のなかでいちばん長い章。白水社版で本文約300ページ。
白水社サイトには「難解な」という形容がつけられているが、訳者や多くの評者が指摘しているように「奇妙な」とか「けったいな」とか「勝手な」という形容がふさわしい叙述のスタイルをとっている。
章題に「レーモン・スボンの弁護」とあり、モンテーニュ自身がレーモン・スボンのラテン語の著作『自然神学あるいは被造物の書。特に人間について』を翻訳出版しているのにもかかわらず、本章を読み通してみてもレーモン・スボンの著作がどういったものなのか一向にわからないという不思議な弁護になっている。レーモン・スボンの著作の内容にほとんど触れないし、まずもって引用がない。分量的にいちばん目に付く引用はルクレティウスの『事物の本性について』で、それも自分の語りの拍子をとるために置かれているような具合で、ルクレティウス‐エピクロスの思想をことさら称揚しているわけでもない。本章を書き綴っていた時期のモンテーニュが懐疑主義の強い影響下にあったという指摘はできるかもしれないが、『エセー』を書くにあたっては、モンテーニュはどこまでモンテーニュでしかない。学問というよりは、妥当な自尊心に裏打ちされた個人的エセー(試み)の書という読み心地の作品なので、あまり突き詰めることなく、読んでおけばいいのではないかと思う。
「レーモン・スボンの弁護」として書く目的や意味合いは分かりづらいが、書かれていること自体はけっして難解ではないと思う。
結局のところ、われわれという存在にも、事物の存在にも、恒常的な実存はいっさいないのである。われわれも、われわれの判断も、死すべきすべてのものも、たえざる流転を続けている。判断する主体も、判断されるものも、絶え間ない変転と動揺のうちにあるのだから、おたがいに、なにも確実なことを樹立できはしない。
われわれは、存在に対して、いかなる関与(コミユニカシヨン)ももちえない。人間性というものは、つねに誕生と死の中間にあって、自己については、曖昧で漠然としたイメージと、不確かで、弱い意見しか示さないのだから。もしも仮に、じっと一点に思索を集中して、その本質をつかまえようとしても、それは水をつかもうとするのに等しい。
(第二巻第一二章「レーモン・スボンの弁護」白水社『エセー 4』p290 )
【付箋箇所】
24, 39, 109, 116, 126, 157, 160, 195, 201, 256, 288, 290
ミシェル・ド・モンテーニュ
1553 - 1592
宮下志朗
1947 -
参考: