読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

大橋俊雄校注『一遍上人語録 ― 付 播州法語集 ―』(岩波文庫 1985)

遊行の捨聖、一遍智真。

南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の念仏札を配り歩き、踊念仏を興した鎌倉時代の僧。

輪廻も極楽浄土も信じられない人間であっても、遍満する仏や本来無一物や他力の仏教思想には慰められることがけっこう多い。年をとってきて、自分の限界も衰えもいやが応でも認めていかなくてはならなくなってからは、特にその傾向が強い。自分が頭に描いている理想的状態が妄念であること、自分の卑小さや勝手さに比例して妄念が大きくなってくる状況を、やんわり教えてくれつつ、逃れる道筋もほんのり示してくれるからだと思っている。

三界は有為無常の境なるがゆゑに、一切不定なり、幻化なり。此界の中に常住ならむと思ひ、心安からむとおもふは、たとへば漫々たる浪の上に、船をゆるがさでおかんとおもへるがごとし。

心を自力でどうにか安定させようとしても無理ですよと世のことわりを教えてくれている。800年も前の言葉ではあるが、比喩が的確なこともあって、いまでも新鮮な感覚を与えてくれる。『一遍上人語録』は一遍を慕う弟子や後代の人々の手によって集成されたものであるが、そこに収められた一遍の言葉や詩歌をたどっていくと、一遍の言語芸術の才能も伝わってきて、熱狂的に信仰する人も出てくるカリスマ性のようなものも想像することができる。

身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染の袖

阿弥陀仏は、はかりしれない光を持つ者として無量光仏と呼ばれ、はかりしれない寿命を持つ者として無量寿仏とも呼ばれる仏。その仏に有限の衆生が我執を捨て帰依することで合一するという回路が一遍によって繰り返し説かれている。聞いて美しい一遍の言葉によって繰り返し説かれている。

信仰にはいたらなくても、敬愛するに値する一遍の思想と言葉。

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一遍
1239 - 1289


参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com