読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

松長有慶『訳注 即身成仏義』(春秋社 2019)

仏教一般に対して空海の思想の特異な点は、すべてが大日如来の発現であるとしているところで、物質も精神も本質的には違いがないという教えが説かれている。この点に関して本書では特に本論の第六章「生み出すものと生み出されるものの一体性」に詳しい解説がある。原漢文で如経文替以六大為能生以四法身三世間為所生から相応渉入即是即義までの部分で、生み出すもの「能生」と生み出されるもの「所生」が本来的に分けられることなく「即」の状態で融合していると説明されている。

聖も俗も同じく、物質と精神の両面が融合し、主客の一体化した六大よりなるから、六大から現実世界が生み出されるといっても、生み出すものも、生み出されるものも、本来は同一体である。そこには、聖と俗、仏と人間、色(しき)と心(しん)、人と自然といった対立関係はない。
(6「生み出すものと生み出されるものの一体性」の【要旨】部分より)

塵もまた仏にほかならないというところから「悟れば仏、迷えば衆生」という認識が説かれるようになるのだが、森羅万象のうちに含まれる迷いあるいは執着が仏の顕現のひとつとしてどのように生み出されるかについてはあまり明瞭には示されていないように思う。示されているとすれば「即身」の陰画として浮かび上がってくる部分であろうか。
六大は地水火風空の五大と識大とからなり、空海においては大日如来の顕現であり、展開される世界の根源としてはたらくものとされる(ちなみに、伝統的な解釈を踏まえて、六大を構成要素ではなく森羅万象の「六種の個別的なありかた」を表しているとしているところにも本書の特徴のひとつである)。本来融合していてひとつであるものを個別の状態で認識し個別の自己に執着してより大きな存在としての法に気づかないという、「即」のありかたに閉ざされている状態が迷いあるいは執着となってあらわれるのだろう。「即身成仏」における「即身」。「重重帝網なるを即身と名づく」というように、森羅万象を映し合い翳りのない状態にあることを「即身」というのであるなら、万物を映しえない状態にあることが迷いであり衆生であるのだろう。
感覚的には以上のような理解でいるのだが、空海をちゃんと理解するためにはもっと文献を読まないといけないなあと考えさせる読書であった。

本書の構成は、著者による要旨解説、現代語訳、読み下し文、原漢文、そして用語釈の5段構成となっている。なかでも用語釈は近代以前から戦後の現代的解説書までを幅広く読み込んだうえで、伝統的解釈と現代の主流となっている解釈が異なる場合には双方の違いに目を向けさせ、とるべき解釈を説得的に提示していて、空海の思想を理解しようとするときにおおいに役に立つ。現代語訳と解説文だけでは気づかず読み過ごしてしまう部分に関しても、くりかえし違った文章で読みすすめるよう導かれているので、行きつ戻りつしながら、より多くの空海の言葉に踏み込んでいくことができる。平易な表現を心がけたという本作品は、初学の者がきちんと学んでいこうとするときに手にしやすいありがたい手引書であると思う。

www.shunjusha.co.jp

【付箋箇所】
14, 30, 36, 42, 47, 50, 54, 62, 71, 77, 79, 83, 84, 90, 101, 102, 110, 113, 119, 126, 131, 136, 158, 178, 184

目次:
『即身成仏義』の全体像
『即身成仏義』本論
 1 即身成仏説の典拠
 2 即身および成仏の名称とその意味
 3 頌の全般的な解釈
 4 六大についての典拠
 5 六大から万物を生み出す
 6 生み出すものと生み出されるものの一体性
 7 四種曼荼羅
 8 三密加持
 9 成仏の頌
 10 一切智智の特性
 11 「円鏡力故実覚智」の説明

 

空海
774 - 835
松長有慶
1929 -