読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

八木雄二『「神」と「わたし」の哲学 キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』(春秋社 2021)

神学中心の中世哲学を専門的に研究してきたことから見えてきた現代の思想の偏向性を相対化し批判的な視点を提供する八木雄二の近作。大著『天使はなぜ堕落するのか』(2009)で明らかにされた古代から中世、中世から近代への思想の展開の道筋は、分量的には半分の本書においても、大きな違いなく辿られている。強調点の違い、新しい情報の追加、現代へ向ける視線の先にある対象例の違いなどで、旧著を正統に変奏している。

偽ディオニシオスの否定神学、科学の真理性の範囲についての見解、ストア派の世界観と神の中世哲学者たちへの影響、思考の型を大きく左右する使用言語の構造と他言語との差異、理性の普遍と感覚の個別性、抽象と経験データ、知と信仰、3人称の神と2人称の神、実在と論理、現象学批判、などなど。

このままでは持続できないかもしれないという情報が普通に流通するようになった時代の転換点、ひとつの時代の終わりの空気に人間社会全体が喘いでいるような現代に、過去の危機の時代に生じた知的営為の研究の成果を、本書の著者八木雄二は、晩年の意識のなか磨き上げて提供してくれている。東京港大井埠頭「野鳥公園」でボランティア活動をする「東京港グリーンボランティア」の代表理事という肩書を持ち、自然環境との共生にも深くコミットしている人物の、時代を憂える芯の通った仕事。

思想は錬磨されていくうちに、その内部で革新が起こる。しかしひとつの時代を終える苦難のなかで、その革新に気づかないまま、人はつぎの時代を迎えるのである。
(「おわりに」p306-307 )

中世から近代への転換は、知的抽象世界から感性的観測データへの重点移行にあった。それは新しい世俗的な学問知に対抗するために支配的旧勢力が正統を維持しようと論証を厳密化しながら逆に自壊を自ら決定づけていく過程であった。21世紀の今は、中世神学の存続にとどめを刺したウィリアム・オッカムのように世界の終末を予感しながら生きることがより物理的に現実化している世の中で、学問の動向としてはますます細分化され且つ究極的な知的権威も見当たらない時代であろう。思想の錬磨はおそらくある。そして、つぎの時代を迎えるような革新が起こっているかどうかについてはおそらくまだ多くは気づいていないし、少なくとも確定できる段階にはない。科学と資本が優位な現在の世界が自壊しながら別ステージを呼び寄せる決定的な価値転換は何なのかという疑問を投げかけられたまま、あるいは疑問を託されたまま、とりあえず本書との出会いはおわる。

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【付箋箇所】
6, 23, 50, 65, 92, 112, 129, 132, 153, 164, 179, 200, 202, 207, 215, 230, 233, 244,257, 280, 291

目次:

序 説 ヨーロッパ中世哲学の研究の意義
第1章 神の存在と哲学
第2章 2人称の神と「わたし」
第3章 中世最後の神学――神学とは何か

八木雄二
1952 -