読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

戸谷洋志『スマートな悪 技術と暴力について』(講談社 2022)

非効率を退け最適化を追求するなかで、利便性と同時に発展進行する冷たい無思考の世界が、高度技術化社会のなかで非人間的な振舞いを誘発容認する悪をも同時に生み出しているのではないかということを、20世紀の歴史を振り返りつつ問題提起し、著者なりの解決の道を指ししめす作品。
悪の事例として取り上げられ検討されているのは二つのケース。第二次世界大戦時のユダヤ人大量虐殺に加担した官僚アドルフ・アイヒマンと日本の満員電車。システムへの自動的かつ自発的加担がシステムが、生み出している悪をより大きくおぞましくもしているという。
ではどうすればよいかということになると、システムを相対化する視点を持てという、どうにも当たり前の結論から出ないように見えもするのだが、その結論にいたるまでには、ハンナ・アーレントの指摘として、ナチス政権が推し進めた政治の公的システムに抵抗し関与を拒んだ人々は多く死を選択したということが語られたりもしているので、主要なシステムに対抗していくのはそう容易なことではないことも読後感としては残る。国家による非常事態宣言下で、別の思考や別の行動をそれこそスマートに対抗的に選択していくのは大変なことだろう。違法の指摘を受けやすい立場にも立たされるであろう。
著者としては「ガジェット」としての生という、システムを時と場合によって渡り歩ける生のスタイルを提案してもいるが、これも気分的には参考になるものの、実際のシステム間の移動については高度な能力もしくは努力が暗黙前提としてあるようで、すんなりと飲みこむことはできない。あるシステム側から見れば無能で非効率なもの非生産的なものが、比較的簡単に選択できる代替システムが同時多発的に立ち上がってくる方が好ましいと思うのだが、実際にそういうものがあるとすると、NGO、NPOなどのほかに資本主義的な代替代行サービスやサブシステムのようなものが思い浮かんできて、なかなか清々しい心地にはなれないのが実情だろう。いずれにせよ主体的に生きたと容易には思わせてくれない状況ではある。
ちなみに現在の日本はスマート社会の先頭を走っているわけではないので、中国や米国、あるいは、旧型インフラの拘束がすくない新興国後進国の最新テクノロジーの展開に注意したほうが、スマートな悪として現れうる事象については参考になるのではないだろうかと個人的には思っている。

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はじめに
 第1章 超スマート社会の倫理
 第2章 「スマートさ」の定義
 第3章 駆り立てる最適化
 第4章 アイヒマンロジスティクス
 第5章 良心の最適化
 第6章 「機械」への同調
 第7章 満員電車の暴力性
 第8章 システムの複数性
 第9章 「ガジェット」としての生
 おわりに
 
【付箋箇所】
16, 23, 26, 35, 39, 52, 87, 93, 97, 110, 139, 145, 155, 159, 174, 182, 184

目次:
はじめに
第1章 超スマート社会の倫理
第2章 「スマートさ」の定義
第3章 駆り立てる最適化
第4章 アイヒマンロジスティクス
第5章 良心の最適化
第6章 「機械」への同調
第7章 満員電車の暴力性
第8章 システムの複数性
第9章 「ガジェット」としての生
おわりに


戸谷洋志
1988 -

参考:

uho360.hatenablog.com