読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョーゼフ・キャンベル『神話のイメージ』(原著 1974, 大修館書店 訳:青木義孝+中名生登美子+山下主一郎 1991)

古代から脈々と連なる世界各地の神話を広く繊細な視点から重層的に扱い、霊的世界と物質的現世世界の合一を主テーマとする各神話を貫くイメージを421点の図版を通じて解き明かしていく。全世界に広がる同系のイメージを、同時発生的なものと考えるより、なんらかの伝搬があったであろうという姿勢を底流に垣間見せながら、華麗ではあるが冷静に紹介してくれている。日本の図像に関しての記述も多く、大変興味深い。たとえば法隆寺の橘夫人念持仏厨子について。

念持仏の基底部では、タコの触手のようなものが、水面下から伸び上がってきている。
タコは、古代クレタ島の陶芸美術で愛好された形態であり、図280(引用者注:クレタ島のアンフォラ型のタコ絵壺)のような優美な筆致で描かれている。タコの8本の触手は、四方八方に放射される光に似ており、天高く輝いている太陽とは反対の、いわば深海の太陽のシンボルである。すなわち、光を発して光明をもたらすものではなく、絡みついて捕まえ、口に持ってきて呑み込んでしまうものである。ただし、橘夫人念持仏の基底部にあっては、タコの触手もその力が破られ、触手から蓮花の茎が生えている。
(第3章「蓮花とバラ」2.花の台座 図206, 207解説 p234 )

まず橘夫人念持仏について語るときに蛸足紋様に視線を促してくれるような紹介文は世にそうあるものではない。しかもその紋様の意味するところを神話的感性のレベルで深く掘り起こしてくれるものはさらにない。また、本文のほうの記述では橘夫人念持仏厨子阿弥陀三尊像の中尊阿弥陀仏についてシンボルの面からの読み解きが行なわれていて、味わいの幅をこちらも大きく広げてくれている。

阿弥陀如来は、天と地、宇宙と個人を表わす、2つの蓮花の間に座し、それによって両者が同質であることを、身をもって証明しているのであり、したがって阿弥陀如来は、あの「神秘のバラ」の聖母から生まれた、まことの神であり、まことの人である、キリスト教イエス・キリストに相当すると言えよう。事実、シンボルの面から見れば、西洋の薔薇は東洋の蓮華に対応している。
(第3章「蓮花とバラ」2.花の台座 本文 p236 )

ジョーゼフ・キャンベルは偉大な神話学者であるとともに、その神話学的視点からジョイスの作品を深く読み解く批評家という側面も持っている。翻訳家柳瀬尚紀が参照し大いに役立てたという『フィネガンズ・ウェイクを読み解く. 親鍵』(1944)という研究書もあるくらいで、その視野の広さ、感受性の確かさと敏感さは一級品である。図版やその解説をみるだけでも、本文を合わせながら読むにしても、本書にも時々顔を出すジョイスなどの特定の記述を拾い読みするのも、それぞれ楽しい。様々な享受の仕方を許してくれる、実に懐の深い一冊だと思う。


ジョーゼフ・キャンベル
1904 - 1987

参考:

uho360.hatenablog.com