愁人愁人に向かって道うこと莫れ、無道愁人人を愁殺す
迷っている人は黙っとけというのは、たとえ正しくても、言い方によっては言論封殺の徒と思われても仕方ないところがあるけれど、反対に、すべての言説をそれぞれいいねといって放置するのもまたおかしな状況ではある。
迷っていることを感じたら立ち止まって心の動揺を沈めて本来的なものを観るように努めよというのが、止観という仏教の教えで、立ち止まるために、自分を外化するために、話したり、書いたりして、内省領域以外の外気に触れさせることは必要だ。
大抵は内面を外化しても迷いのピークを過ぎたうそ寒い状態は続くのだが、特殊な信念に着地してしまうよりは害は少ない。愁いによっては自分を含めた人を殺すほどにはならずに済まずに終わる。
おそらく、救いを求めている時点で、救いは消えている。ありのままを受けいれ、無くても良かろうものをそれと認めて否認するところで、憂いの世界とは違ったものが出来するのだろう。
道元の同じ教えの言葉であっても、見えてくるのもは違うだろう。汚れも迷いもない真如は変わらなくても、根源的負を負った無明と煩悩とともにある我々衆生のそれぞれの心にとって、救いの姿と救いの現われてくる段階は立場によって異なってくる。
道元の生きた鎌倉期の日本と21世紀の日本の状況では現世を成り立たせているものが違う。いまある世界は、道元が知らない事物と関係性ばかりで成り立っているといっても過言ではない。
また、当時の知識人の表現形式が基本的に漢文であることから、まず心の在り方も動き方も違っているだろうことは、おぼろげながら想像はつく。鎌倉時代のやまとことばと漢語の上層知識層中心の重層的な言語の使用のなかで分節化される世界観は、21世紀の世俗優位の口語一強の世界観とは違った秩序を要請していたであろう。
これらの時代的な通約不能性とともに、時代を超えて通底する部分を持っている人間道元の言葉に接してみることは、いま現在の自分自身を相対化するのには、役に立ちやすいところも多く含まれている。道元においては仏性一強の世界観であったものを、どうとらえるかということが(少なくとも商業上は)読者側にゆだねられていて、そこに思考が起動する起点がある。
読み下し文、原文、現代語訳、語義、解説の五段構成で、著者読解を補った現代語訳と比較的短い語句解説中心の解説によって道元の詩に向き合うことになる。
世界観の表明として気になるのは、荘子の万物斉同説を二度にわたって拒絶しているところ。該当箇所は、自賛12と偈頌81。
偈頌81:
山を透し海を尽くす月円の中、直に指して天地に喩えしむること莫れ、一馬一空秋も也空なり。
全ては実在のない空であるという道元の主張が、万物はきわむるところ同一のものであるとする荘子の万物斉同説とどう違うのか、本書だけでは判別しがたい。言語の抽象表現において、志向する先の実体の有無に関しての強調の度合いが違うだけとも思いはするのだが、道元にとっては死活問題であったのであろう。
つづいて読んでいる道元の『「永平広録・上堂」選』において、道元が、当時の思想界を席巻していた儒教・道教・仏教を同一視する三教一致説を邪説として退けていたと教えられたのと、吉本隆明による良寛を通しての道元解釈(ほぼ日のアーカイブ)によって、道教の永遠性に対する宗教的関心の欠落に対して、道元が否定的認識を持っていたことが分かり、その点に関してはなんとなく腑に落ちた。
分からなかったり納得いかなかったりする場合は、ある程度、周辺の資料に接することで解決する場合もあるということを再認識した読書体験であった。
【付箋箇所】
5, 6, 11, 13, 77, 130, 174, 216, 221, 222, 228, 252, 253, 265, 273, 281, 309, 314, 320, 335,
道元
1200 - 1253
大谷哲夫
1939 -