読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』(原著 1992, 野中美峰訳 KADOKAWA 2021)

2020年のノーベル文学賞受賞作家の第六詩集。本作にてピューリッツァー賞詩部門を受賞、詩人の著作の中では最も読者層に受け入られた詩集でもある。

花咲き実を結ぶ植物と、その植物との出会いの場となる小さな庭園を主要なモチーフに、自身の揺らぎ続ける感情を言語化して消化し、鎮静化するとともに、外界に向けて昇華を願いつつ、精神の傷の諸相を明らかにしている。

詩集は、植物や庭から詩人へ、詩人から神へ、神から詩人が属する人間へ、それぞれがそれぞれに届くことのない聞こえない言葉で話しかけるモノローグの集成として成立していて、そのモノローグの発信者は、それぞれがそれぞれの立場からこう宣言する、「わたしが野を形成するのよ I will constitute the field」。

植物たちの自然の層と、人間たちの活動の層と、造物主たる唯一神の層、三種の層のことばが詩人によって仮構され、直接交わらないまま重ね合わせられ、重層化された世界がたち現れてくるようになっている。個々のことばの塊は強くトゲのあるものがほとんどだが、詩集全体の味わいは複雑かつ繊細で、多声の響きが高く低くこだましていて、発せられつづけるいくつもの発話の層の印象があざやかに残る。

読者は詩のなかではしゃべることのない太陽や月もしくは地球のような立場で、その場に居合わせることのできた光や大気として、複数のことばの存在をじっくり感じとり、再生させることが可能で、そこに何度も読み返すことの喜びが生まれてくる。ひとつの瞬間に垣間見える永遠の相に、読み返すたびに異なる箇所で、かすかに触れたと感じんことができるのが本書のよいところだと思う。

著者ルイーズ・グリュックは、学生時代に拒食症を患い、本作成立過程においても鬱病と境を接しながらの活動をしていたと思われるが、高度な批評性に裏付けられた硬質なことばの選択に業と救いがどうじに感じられる見事な達成をなしとげている。

本書は対訳本で原文も読める。英語だとIとyouが実際に誰を指しているのか文脈から読み取ることが必要であり、読み間違えることも多くあるのではないかと思うが、日本語では翻訳者の解釈とともにはじめから訳し分けられているので、詩集としての構成はより読み取りやすくなっていると思う。ただ、日本語の、「あなた」「あなたたち」と「お前」「お前たち」の表現の差は大きく、英語でyouの一語で機能的に指示されている対象のイメージとは印象が違うのだろうなという印象も持った。

 

www.kadokawa.co.jp


ルイーズ・グリュック
1943 - 
野中美峰
1920 -