本当の修羅は修羅でない者にむかってことばを投げつけずにはいられないものなのだろう。
だから、多作が可能であり、際限のない推敲が可能となるのだろう。
50歳を過ぎてようやく納得できたのは、私自身は修羅ではないということ。
その差を確認するための導き手となってくれただけでも、本書は私にとっては意味のある一冊であることは間違いない。
「おれはひとりの修羅なのだ」
詩人の叫びに点火され、心ふるえてしまうことは致し方ないところではあるが、自分が修羅であるかどうかはわからない。
修羅に憧れる餓鬼でしかない可能性も高い。
入力も出力も業としている人と違う世界に属していれば、同じことができないのは当たり前のことなのだ。
そこをどうにかしたいと思いつづけてしまうのが厄介なところである。
宮沢賢治が非難されることを承知の上で回避しようとした世間一般の生活を選びながら、世間一般の論理を超えるものに触れようとしてもチャレンジすることさえ難しいはずなのだが、宮沢賢治の作品は個人のものでしかない試行錯誤を共有できるように形を整えてくれている。
どうしてそのようなことができるのかはよく分からない。生来の言語感覚と育った環境によるものには違いないけれども、どこか異次元に属しているような表現の様相は、じっと見つめて染まっていくほかないような気がする。
塚本邦雄は短歌表現の才能において宮沢賢治は石川啄木にはるかに勝っていると言っていたことがあった。短歌だけでなく、詩も童話も、表現すべてにおいて、宮沢賢治は宮沢賢治でしかない領域に達していたのだと思う。苦悩しながら、苦悩の表現自体が楽園を創造してしまっているところが、作家でしかありえなかった宮沢賢治の真骨頂なのだろう。
読者は、まずは虚心に読むほかはない。そんなことを改めて教えてくれるのが本書の宮沢賢治研究であった。
詩や童話からの引用が多く、宮沢賢治の作品世界にスムーズにしかも広範に導いてくれているところがすばらしい。
特に、短歌作品の引用が多いのが特徴で、ジャンルを超えた表現能力の高さを確認させてくれる。
サイプレスいかりはもえてあまぐものうずまきをさへやかんとすなり
雲の渦のわめきのなかに湧きいでゝいらだちもゆるサイプレスかも
ゴッホの燃え上がる糸杉の絵に触発されて詠まれた短歌は、漢字かなカタカナ交じりの日本語表現の妖しさを生かし、音韻的にも鋭いi音と籠ったu音のバランスが印象的で、見事なイメージにまとめあげている。
宮沢賢治は1896年生まれ。アントナン・アルトーも同年1896年生まれ。アルトーは残酷を表現しようとし、宮沢賢治はしあわせを表現しようとした。一見対極にあるように見えはするが、世間一般の論理を超える世界の別の様相に到り、それを解放しようとする方向性を追求したことにおいては、両者は一致したところがあると思う。アルトーの残酷と宮沢賢治のしあわせはそう遠いものではない。
※見田宗介は宮沢賢治とカルロス・カスタネダを重ね合わせて論じている。
【付箋箇所(単行本)】
45, 55, 75, 78, 79, 85, 131, 161, 168, 187, 193, 196, 198, 199, 205, 218, 225, 230, 262
目次:
序章 銀河と鉄道
りんごの中を走る汽車―反転について
標本と模型―時空について
銀河の鉄道―媒体について
『銀河鉄道の夜』の構造―宮沢賢治の四つの象限
第1章 自我という罪
黒い男と黒い雲―自我はひとつの現象である
眼の赤い鷺―自我はひとつの関係である
家の業―自我はひとつの矛盾である
修羅―明晰な倫理
第2章 焼身幻想
ZYPRESSENつきぬけるもの―世界にたいして垂直に立つ
よだかの星とさそりの火―存在のカタルシス
マジェラン星雲―さそりの火はなにを照らすのか
梢の鳴る場所―自己犠牲の彼方
第3章 存在の祭りの中へ
修羅と春―存在という新鮮な奇蹟
向うの祭り―自我の口笛
《にんげんの壊れるとき》―ナワールとトナール
銀河という自己―いちめんの人生
第4章 舞い下りる翼
法華経・国柱会・農学校・地人協会―詩のかなたの詩へ
百万疋のねずみたち―生活の鑢/生活の罠
十一月三日の手帳―装備目録
マグノリアの谷―現在が永遠である
宮沢賢治
1896 - 1933
見田宗介(真木悠介)
1937 - 2022
参考: