読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

馬場あき子+松田修『『方丈記』を読む』(講談社学術文庫 1987, エッソ・スタンダード株式会社広報部 1979)

鴨長明が残した散文作品と和歌と同時代の「家長日記」などを語りながら、鴨長明の人間像についてざっくばらんに語り合った対談録。長明の非徹底的な側面を比較的冷たくあしらうように語る日本文学者松田修と、不完全で弱さに徹底してまみれた長明を文学者の態度として賞揚する馬場あき子の対比が面白い。仏教者としても歌人としても伝説的な存在とまでなった西行に比較して、仏教者として悟りもせず歌人としても二流の鴨長明の魅力が奈辺にあるかというところが、くりかえし話題にされているのが本書の特徴であろう。なかでも「長明は悟れなかった人だから上人としては駄目だったけれども、中途半端を主題にしきった点、文学者としてはすごいと思うの」という馬場あき子の評価はとても印象的。松田修のほうは、方丈庵について小さなスペースではあるけれども自分の関心を持つものについては何ひとつ捨てていないスタイルを指摘して、それを今でいうならデコトラであろう「極道ダンプ」スタイルに重ね合わせているところが出色。斎藤環がいう知性ではなく気合が優越するというヤンキー主義が思い合わせられるが、突発的に行動してしまうところなど反知性的側面において共通しているところもあるように見え乍ら、鴨長明にあってはどちらかといえば旧来からの理に囚われ足を掬われている傾向のほうが強い。浅田彰的なスキゾ・キッズの先行例と見たほうがすっきりするのではないかとわたしは考える。
ちなみに、歌人馬場あき子が歌人としての鴨長明の弱点を指摘する時にも、和歌の心得という理知的な面が出過ぎているため、上句と下句の繋がりに嫌みが出てくるものが多いといって、理に落ちるがゆえに強情で不自然な行動をとってしまう鴨長明の姿が浮かび上がってきていた。人が持つ資質のおそろしさということに思いが行くとともに、散文作品においては逆に危ういバランスで作品の魅力となっているところにジャンルやスタイルに関わる不思議さを感じもした。
長明の古典作品を十分に読んでいなくても、気軽に読みすすめることができるところも、本書の評価できる点。

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【付箋箇所 エッソ・スタンダード株式会社広報部版(上下二段組み a:上段, b:下段)】
10b, 12a, 14a, 16a, 34a, 42b, 48a, 54b, 59a, 65a, 72a, 74a, 88b, 98b, 99b, 116a
目次:
1 長明とは誰か
2 『方丈記』を読む
3 歌のわかれ
4 遊狂の源流

鴨長明
1153 - 1216
松田修
1927 - 2004
馬場あき子
1928 -