読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャン=ポール・サルトル『サルトル全集23 哲学論文集』(人文書院 1957)

サルトル最初期の論考3篇を収めた一冊。

「想像力 ―デカルトからフッサールまで―」(初出 1936, 訳:平井啓之)

知覚と想像力、現実と非現実、受動的綜合と能動的綜合。知覚を成立させる素材と志向と想像力によって像(イマージュ)を成立させる素材と志向との間に断絶があることを強調し、想像力のはたらきをフッサール現象学から論じようとしたサルトルの哲学的処女作。後の『イマジネール(想像力の問題)』(原著 1940)の前段をなしている。知覚を起点として想像力がはたらき何らかの像を結ぶという通念を断ち切ってみせたところに本論考の意味があるようだ。


「自我の超越 ―現象学的一記述の素描―」(初出 1937, 訳:竹内芳郎)

自我は意識のなかにあるのではなく、世界という外部にあることを主張した論考。意識は非人称的な存在の源泉であり、自我は世界と同様その意識にとっての対象として存在しているとサルトルは言っている。

《世界》が《自我》を創造したのでもなければ、《自我》が《世界》を創造したのでもない。それらは、絶対的・非人称的な意識にとっての二つの対象であり、意識を介してこそ、それらはむすび合うのである。この絶対的意識は、それが《我れ》から純化されているとき、もはや主体といったものを何ももたないし、それはまた、諸表象の集合でもない。それはただ端的に、存在の第一条件であり、絶対的源泉なのだ。

これが結論なのだが、私のような者が二回程度読んだくらいでは明晰に理解できたなどとはとても言えない。ただ、意識の自動的で自律的な機械的かつ魔術的なはたらきのなかから、意識そのものとは別に、対象として析出されとらえられるというようなことが描き出されていたような印象が残っている。

 

「情緒論粗描」(初出 1939, 訳:竹内芳郎)

怒りや悲しみや驚きや歓びなどの情緒は現実の世界を自分自身に対して変容させる魔術的な態度であるというのがサルトルの主張。

私たちの断言しているところは、ただ、自分の身体を呪術の手段としてもちいながら魔術的な世界を形成することに一切の情緒が帰する、ということだけd。それぞれのケースにおいて、問題はさまざまだし、行為もさまざまなので、それの意味や目的をとらえるためには、その各々の特定の状況を認識し、分析せねばなるまい。

先行する二つの論考とあわせて、哲学者と同時に小説家であり劇作家でもあったサルトルの資質をよく表している初期哲学作品であるなと思った。現実世界よりも想像世界に重きを置く表現者のはじまりの姿が刻まれているようだ。

 

【付箋箇所】

・「想像力 ―デカルトからフッサールまで―」(初出 1936, 訳:平井啓之)
8, 21, 33, 34, 37, 47, 50, 51, 55, 73, 75, 77, 86, 90, 105, 112, 114, 117, 124, 133, 143, 151, 153, 159, 162, 166
特に
37, 51, 117, 133, 153, 162, 166

・「自我の超越 ―現象学的一記述の素描―」(初出 1937, 訳:竹内芳郎)
177, 182, 184, 187, 195, 200, 201, 202, 221, 222, 226, 235, 236, 238, 242

・「情緒論粗描」(初出 1939, 訳:竹内芳郎)
259, 270, 272, 299, 307, 313, 322, 323, 328

・あとがき
345, 346

 

ジャン=ポール・サルトル
1905 - 1980

ja.wikipedia.org

平井啓之
1921 - 1992

ja.wikipedia.org

竹内芳郎
1924 - 2016

ja.wikipedia.org