読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』(NHK出版 2005)

『知覚の現象学』を中心に語られる、メルロ=ポンティ導入の書。

 

【『知覚の現象学』「序論」からの引用】

感覚するとは、性質に生命的な価値を付与することであり、性質をまず、私たちに対しての意味、それが私たちの身体である、重みある塊にとっての意味のなかでとらえることなのである。
(第一章「経験に立ちもどること」p47)

 

メルロ=ポンティが詩的であるとすれば、「私たちの身体である、重みある塊」といった文飾にその傾向が特徴的に表れている。彩りある文章なので、フッサールより断然親しみやすい。


【幻影肢の患者の身体をめぐっての考察の解説部分】

ひとは、つまり身体であることで世界に参与しており、世界に参与する身体は、第一次的には習慣化された身体である。ハイデガーふうにいって、人間が世界内存在であるとは、第一に、人間が世界にかかわる習慣的身体として存在しているということだ。
(第二章「身体へ立ちかえること」p56)

 

フッサールの著作において知覚は抽象化されていて個体差が前面に出されるようなことはなかったと思う。メルロ=ポンティは感官をもつ身体を中心に思考を展開しているため、知覚には個体差があることをどこかでつねに意識させ、かつ、「習慣の体系としてあらわれる、この身体」という言い方をしていることからもわかるように、身体の世界への参与の仕方がある時間ある空間で異なるものであること、変わりうるものであることを示している。身体あるいは感官については、個体差と個体における変化を前提にして語ってくれた方が、断然読みやすく理解しやすい。

 

哲学分野の一般向け著作で、最近熊野純彦の名前はよく見かける。本書を読み通してみて、文章構成の軽やかさなどから人気がでてくるのも当然かもしれないという感想をもった。

 

www.nhk-book.co.jp

目次:
序章 哲学者は詩人でなければならないか?
第一章 経験に立ちもどること
第二章 身体へ立ちかえること
第三章 世界を取りもどすこと
終章 哲学者は詩人でありえたか?


モーリス・メルロ=ポンティ
1908 - 1961
熊野純彦
1958 -