読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス 東洋哲学のために』(1989, 2019)

柄谷行人も似たようなことを最近の著作のどこかで言っていたような記憶があるが、世界共通言語としての「メタ・ランゲージ」が必要だという発言が一番大きなテーマとして響いた。

メタ・ランゲージというものがどうしてもできなくては、さきほどの国際社会のコスモス化というものも成立しないと思いますね。各民族が、おのおの自分の言葉しか知らなければ、だめだと思います。だからといって、ほかの言葉を知ったって限界がありますから、それにはやっぱりメタ・ランゲージ的な文化パラダイムというものが成立しないとだめで、そこに哲学の使命があるんじゃないか。まあ、理想論でしょうが、そう思っています。(「二十世紀末の闇と光」p481)

それから、こちらの発言は本書所収の各論考を読み解く導き手となってくれる。

私にいわせれば、阿頼耶識とは、第一義的には、意味が生まれてくる世界なんです。意味というのは、存在じゃない。存在じゃなくて、「記号」なんですね。つまり、記号が生まれてくる場所。それが言葉と結びつくと言語阿頼耶識になる。言語阿頼耶識になる前に、言語以前の、純粋意味性の世界というものが「種子」の世界であって、それを唯識では名言種子(みょうごんしゅうじ)といっているんです。
つまり、結局すべてコトバだということですね。まだ言語そのものではないんだけれども、言語化されるべきものである。言語すなわち名称性を志向している浮動的流動的な意味単位の群れが自己顕現しようとして、いつも動いている内的場所。自己顕現して、たまたま因縁が合えば経験的な存在の世界になってあらわれてくる。それを、外的な世界だと思ったら、間違いになる。というのが、ごく簡単にいえば唯識の哲学的立場ですね。(「二十世紀末の闇と光」p478)

こちらの言葉が発せられた司馬遼太郎との対談だけでも読む価値がある。もちろん、ほの論考も読めば読むだけ手ごたえを感じさせてくれる大きさがある。

 

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内容:
Ⅰ 事事無礙・理理無礙――存在解体のあと (「思想」 1985年7・9号)
Ⅱ 創造不断――東洋的時間意識の元型 (「思想」 1986年3・4号)
Ⅲ コスモスとアンチコスモス――東洋哲学の立場から (「思想」 1987年3号)
Ⅳ イスマイル派「暗殺団」――アラムート城砦のミュトスと思想 (「思想」 1986年7・8号)
Ⅴ 禅的意識のフィールド構造 (「思想」 1988年8号)
対談 二十世紀末の闇と光 (井筒俊彦司馬遼太郎) (「中央公論」 1993年1月号)


井筒俊彦
1914 - 1993