『万葉集』と『詩経』を共に読むことを人生の中心に据えた白川静の『詩経』側の著作。
『万葉』が早く創作詩として個人の世界、心情の内面に沈潜していったのは、わが国の文学において古くから社会性の欠如がその特質をなす傾向のあったことを示している。
詩篇はそれとはいわば対蹠的といってよい方向をもつ。そしてその相違は両者の文化の展開の上に著しい傾向としてあらわれている。わが国では、社会的な問題もおおむね個人の心情の次元に収斂されてしまう。中国では、個人の問題もときには社会の問題として投影され、社会との関係という形で表現されるのである。(第六章「詩篇の伝承と詩経学」p257-258)
万葉よりさらに時代が深い詩経の世界は、古代中国の社会的傾向に沿った世界でもありなかなか容易にはその姿をあらわしてくれないが、本書は万葉集との類似という視点から丁寧に詩篇の世界へと案内してくれている。
この二つの古代歌謡週にみられる本質的ともいうべき類同のうちには、おそらくこのような古代的氏族社会の崩壊という、社会史的な事実に基づくものがあろう。かれらは、それまで祭祀共同体として絶対的なおそれをもってつかえていた神々の呪縛から解放され、いまや歴史の世界に出たのである。人びとははじめてそこに自由をえた。感情は解放され、愛とかなしみとに身をふるわせることができた。新しく見出された自然は新鮮であり、人々の感情は鮮烈であった。それは人間が歴史の上ではじめて経験する新生の時代であったといえよう。(中略)そこには、神とともにある人びとが神への隷属から解放されて、しだいにその現実感情を確立してゆく精神の歴史が、あざやかに歌い出されているのである。(第一章「古代歌謡の世界」p14-15)
白川静
1910 -2006