読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

山内志朗『普遍論争 近代の源流としての』(哲学書房 1992 平凡社ライブラリー 2008)検証できないものに向かう心意気

中世神学の普遍論争についての導入書。実在論者の肩を持とうとする著者が「形而上学的普遍」の実在性を何とか示したいといいながら、あまりうまくいっているようには思えないところが、かえって誠実で好感の持てる一冊。アウグスティヌスアリストテレスから記号の問題を論じた第二章から第三章にかけてが、神学に詳しくない一般読者としては一番興味深く読めた。

事象的一性、および精神の外部の普遍が、事物に根拠をもっている(ex parte rei)かどうか示すのは、観察や検証によっては不可能です。事物の中に、事象的一性が見出されるかどうかということは、事物の中に、数的一性と異なった一性が見出されるかどうか、個体性の原理が普遍的なものに何かを付け加えるかという問いの中で吟味されます。つまり、個体性の原理が何かを付け加えるとしたら、個体から個体性の原理を取り除いた存在論的剰余が普遍として考えられ、同時に事物・個体の中に普遍があると言えることになるのです。
(中略)
実在論者の方は、個体よりも普遍の方が先立っていて――いかなる仕方で先立つかは不問にして――その普遍性が個体性の原理によって個体化されて、個体が成立しているのだとするわけですが、唯名論者の方は、普遍性が先立っていて個体化されるという機序を認めません。それどころか、初めから存在するのは個体だから、個体化の原理など認めませんし、普遍性が限定されて個体が成立するなどという考えなど認めないわけです。
(第3章 煩瑣な論理の背後にあるもの―「代表」の理論について 3「単純代表をめぐる論争」ⅱウォルター・バーレー/実在論的解釈 p227-228 )

「観察や検証によっては不可能です」「いかなる仕方で先立つかは不問にして」と明示的に書いてあるところが好ましく、それでもなお実在性を何とか示したいという著者の意向が立場を同じくしないものにも関心をもたせてくれる。もしかしたら何か知らない大事なことを教えてくれるかもしれないという興味。世俗的な方向性を持つ唯名論の方が中世教会内にあってはむしろ異端であったということも記憶しておくべき点。山内志朗の第一著作。


目次:
第1章 中世哲学を覆い隠してきたもの、普遍論争―中世哲学の仮面
 偽装された普遍論争
 アベラールの唯名論
 その後の普遍論争
 普遍論争の行方
 第1章への補足
第2章 <見えるもの>と<見えざるもの>―記号と事物
 <見えるもの>と<見えざるもの>
 記号の問題
 ものと記号
 記号論存在論
 第2章への補足
第3章 煩瑣な論理の背後にあるもの―「代表」の理論について
 「代表」の理論
 単純代表について
 単純代表をめぐる論争
 唯名論実在論
 第3章への補足
第4章 二十世紀の中世哲学
 排除されたものとしての中世哲学
 二十世紀になってからの中世哲学
 日本での中世哲学
 第4章への補足

 

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【付箋箇所】平凡社ライブラリー
71, 89, 96, 98, 99, 108, 129, 130, 135, 137, 165, 208, 223, 228, 246

 

山内志朗
1957 -