旧約聖書の出エジプト記に取材したシェーンベルクの未完のオペラ。台本だけ完成して楽曲のほうは情勢不安のためドイツからアメリカへの亡命したのちに完成することなく終わってしまう。
普段オペラはほとんど聴くことはないのだが美学者の中井正一が『モーゼとアロン』に言及していたことがあったことを思い出したので図書館で借りて聴いてみた。シェーンベルクの無調の音楽は高橋悠治の『新ウィーン楽派ピアノ作品集』で触れてはいたものの、聴いていて心地よいというものではなかったので、そのシェーンベルクが作るのはどんなオペラなのだろうと、おそるおそる聴いてみたところ、不穏なドラマにふさわしい楽曲ということもあって、なんだか馴染んだ。歌唱のほうも歌うというよりも、朗読劇の訴えの声のようであって、ドイツ語を理解できない私にとっては、それも音として興味深いいい声であった。コーラスも様子を見ながらもカサカサと湧き上がる呟きや会話を表現していて効果的だと感じた。
神に選ばれ神の側に立つモーゼと、神の直接の声を与えられない存在の民衆側寄りのアロン。言語表現が得意ではない弟モーゼと、人間側の言語表現については十全な能力を駆使できる兄アロン。民衆とアロンは黄金の子牛を偶像として崇めたことによって神に背き、モーゼに非難されることになるが、シェーンベルクの台本を読んでみると、アロンにシンパシーを感じ同情したくなった。モーゼの民衆に背かれての孤独と、アロンの民衆の側に立ちながらも神の後ろ盾はなく自分で考え一人いる孤独。アロンの不安や悩みの方が入りこみやすいし、シェーンベルクの台本も聖書の記載よりアロンの重要度が増して描かれている。
これこそ黄金なる材料、
それをあなたたちは捧げたのだ。
私がこの材料に与えた形態は、
他のすべてと同様に、
一見して移ろうもの、二次的なものである。
この象徴の中で、あなたたちは自分自身を崇めるがよい!
(第2幕第3場「黄金の子牛と祭壇」よりアロンのセリフ 長木誠司訳)
冷めた目をもっているために昂揚や陶酔から距離を置かざるを得ないアロン。見える目をもっているが、それは人間側からのもので神の側からは「像」「偶像」と否定的にとらえられてしまうもの。拠りどころなく不信と懊悩ばかりが身のうちをめぐる。神はシンパシーを感じる対象であろうはずはなく、同情という気持ちはどうしてもアロンのほうに向く。
今回、シェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』を聴いたことが縁で、旧約聖書の「創世記」と「出エジプト記」をあらためて読んでみた。聖書の世界では弟が選ばれ、兄が虐げられるケースが多いように感じられたのだが、どういうことなのだろう。長子特権というものがありそれを相対化するための回路がつくられているのだろうか。聖書は実際に読んでみると文化的にちがう出自を持つものであっても色々ひっかかてくるものがあって、気にしだすと深みにはまりそうでこわいところがある。
アルノルト・シェーンベルク
1874 - 1951
ピエール・ブーレーズ
1925 - 2016
長木誠司
1958 -