読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

セーレン・キェルケゴール『死に至る病』(原書 1849 講談社学術文庫 2017)絶望の反対は希望でなく信仰

副題は「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」。『キリスト教の修練』と併せて当時のデンマーク国教会(キリスト教プロテスタントルター派の教会)の批判の書として書かれている。
時代が異なる異教徒が読む必要があるかどうかという視点では、実存主義の始祖のような位置、ヘーゲル批判者としての位置としての古典として読むというのと、『死に至る病』のなかで偉大な人物としてソクラテスシェイクスピアが挙げられているので、読むことで人生が形づくられた偉大な先達として読むということで、必要ということではなくひとつの選択肢として挙がってくるというところだろうか。
キェルケゴールの主張は、絶望がゼロになるためには信仰が必要になるというもので、日本でいえば浄土真宗系の絶対他力の思想に近い。

人間がキリスト教に躓くのは、キリスト教があまりに高いからであり、そして、キリスト教が人間を普通ではないものにしようとするにもかかわらず人間にはそのことが自分の頭ではよく理解できないからである。
(第二編 絶望は罪である A 絶望は罪である 付論 罪の定義が躓きの可能性を孕んでいること。躓きについての一般的考察 p151 )

無限なものに対しては自力での自己実現や理解が可能であると考えることは慎まなければならない。無限で絶対的なもの、キリスト教の場合には神であり、浄土真宗の場合は阿弥陀如来を報身として現われる宇宙のダルマで、それに帰依し、常に他なるものの力に向き合うことが必要である。他力の思想は、実際に実践しようとすると、面倒で厳しいものであるに違いない。他なるものによって決定されているので自分の行動による成果を勝手に予想したりしてはいけないし、かといって裁きを受ける「単独性」は自己の責任において保持していなければならないので、自分を楽しむことが容易ではなさそうだ。

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【付箋箇所】
30, 63, 65, 75, 78, 86, 107, 109, 124, 149, 150, 151, 156, 161, 167, 174, 182, 191, 196, 206, 209, 214, 218, 219

目次:
第一編 死に至る病とは絶望のことである
A 絶望が死に至る病であるということ
B この病(絶望)の普遍性
C この病(絶望)の諸形態
第二編 絶望は罪である
A 絶望は罪である
B 罪の継続

セーレン・キェルケゴール
1813 - 1855
鈴木祐丞
1978 -