読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

門屋秀一『美術で綴るキリスト教と仏教 有の西欧と無の日本』(晃洋書房 2016)キリスト教の宗教画と日本の禅画を比較しながら最終的には西田幾多郎の哲学の核心にせまろうとする著作

美術の棚にあったけれど、著者自身があとがきで書いているように宗教学の本。出版社のサイトにもジャンルは哲学・宗教学と書いてあったので、美術の歴史や技巧や洋の東西の美術的な差異などについての記述を期待していると裏切られる。宗教画や禅画の図版は宗教哲学を論ずるための起点として置かれているので、その絵の何が美的なものとして人の心に響くのかということは直接的には教えてはもらえない。あとからじんわり効いてくる。

空白を埋めつくそうとする西欧のキリスト教美術と、余白を好む水墨画。その背景にある有を良しとするユダヤキリスト教的世界観と空無を観ずる仏教的世界観についての対比考察が、本書では全篇にわたって説かれている。西欧宗教画では、前景となる人物にも背景となる自然にも創造神の創造の行為が読み取られるように描かれているため空白や無が入る余地はなく、逆に不生不滅の仏心が真なるもので、現象の世界としての色(しき)は空であるとする仏教側の美としての禅画では、前景のはかなさや画面の奥に突き抜ける空白にこそ仏性が感じられるようになっているようだ。

西洋の無(nothing)は有としての物(thing)の否定(no)であるから、西洋の無は神の作った有を否定し、無は悪として有は善として対立する。しかし、インド伝来の仏教の無はその対立を超えた絶対の無である。したがって心としての仏は「有るか無いか」を超えて不生にして不滅、それなのに無あるいは空だという。
(第8章「聖霊の象徴の鳩、仏性の象徴の鴨」p94-95)

『華厳の思想』で発出論・生成論の立場を仏教はとらないと鎌田茂雄が言っていたことも思いだしながら、あらためて『美術で綴るキリスト教と仏教』に収録されている図版を眺め返してみると、文字で感じるのとはまた別種の思想傾向と技術や歴史の違いを感じることができてなかなか面白い。最後に著者が言いたかった西田幾多郎の「絶対矛盾的自己統一の絶対無の場所」に関しては、興味は持てたものの、記述の分量が限られていたこともあり、何か他の著作につなぐことができたらいいかなという印象に収まっている。つぎに西田哲学に関するものを読む時には、禅画や水墨画の世界を思い浮かべることにしよう。

 

【付箋箇所】
1, 88, 94, 155, 167

 

目次:
第1章 有のキリスト教美術と無の仏教美術
第2章 生涯から見た有のキリストと無の釈迦
第3章 復活から見たキリストの有と達磨の無
第4章 言葉から見た有のキリスト教と無の仏教
第5章 実践に対するキリスト教と仏教
第6章 弟子に有を示すキリストと無を示す仏教者
第7章 反逆者を斬らせたモーセ、猫を斬る南泉
第8章 聖霊の象徴の鳩、仏性の像徴の鴨
第9章 西洋の時間と東洋の時間
第10章 西洋の天地創造と東洋の十牛図
第11章 サムライの宗教とは?
第12章 懐疑に始まる有の哲学、無の哲学
第13章 場所論としての西田哲学

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門屋秀一
1967 -