読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

Yone Noguchi 'SEEN & UNSEEN' と野口米次郎『明界と幽界』 比較資料 (野口米次郎再興活動特別編 001)

二重国籍二重言語であるがゆえに日本と西洋との橋渡し的存在となり得た日本近代詩黎明期の詩人、二重化の上にそれぞれ残った野口米次郎とYone Noguchi。

同時代的には、インドのタゴールが英語とベンガル語二重言語を使用し、1913年には『ギタンジャリ(英語版)』によってノーベル文学賞を受賞したという、西洋側の受容の態勢があった。

英語表現による東洋的思想および感受性が、神秘的で別世界を期待させもすることで、関心の中心に置かれるような状況にあったことが、詩作をより活発化させたところもありそうだ。

後の詩人野口米次郎の第一詩集は1896年にYone Noguchi 'SEEN & UNSEEN'としてアメリカで出版されている。

日本に帰国して後、かなりの時間をおいて野口米次郎は日本語の詩の出版を開始する。開始年度は1921年、和暦でいうと大正10年、36歳での出版となる『二重国籍者の詩』からが日本語詩人としての野口米次郎のキャリアとなる。この四年前に萩原朔太郎が『月に吠える』を発表し、日本口語詩の領域を切りひらいた後での日本語詩人としての活動なので、日本においての文学史的な評価はそれほどまでには高くはない。しかしながら、英語圏で詩人としての活動を開始した西脇順三郎の先駆者的な位置にいることもまた確かで、簡単に忘れ去ってしまってよい詩人ではない。

近年、静かにではあるが野口米次郎再評価の機運が高まっており、そのなかで現代の研究家層によるYone Noguchi 'SEEN & UNSEEN'の対訳本が出版されている。渓流社版ヨネ・ノグチ対訳詩集『詩集 明界と幽界 SEEN & UNSEEN』がそれだ。

野口米次郎自身も第一詩集をはじめとして英語で出版した若き日の詩に思い入れは強いようで、作者翻訳を多く試みてはいるのだが、製作者の特権もあって、中年期を迎えての自作翻訳ではだいぶ改修しているところがある。渓流社版対訳詩集は訳者による意訳や語彙変換でのこだわりは見られるものの基本的には原文に忠実な訳業となっている。双方の日本語を比べてみるだけでもそうとな違いがあるので、その比較用の資料として、著作権の切れている野口米次郎による自作改作付き翻訳を、改作前の原詩題名および渓流社版対訳詩集での日本語題を付加して、資料としてここに一覧形式で並べてみたい。

 


 

群青色の空
(Seen and Unseen 1896, 14. SLIDING THROUGH THE WINDOW. 渓流社版『明界と幽界』14. 天の窓から滑り出て)

 空は群青色の天井ででもあらうか、どこかに立つている無形の春といふ煙突から吐きだす靄(もや)が、空の天井の穴から入つて来て、私共の広い世界といふ部屋を一杯にする。無邪気といふ形容詞も変だが、この靄には小児の呼吸みたやうなものがある、恐らくそれは美の蒸発気であらう。
 御覧なさい、今四月の大地は波立たないこの靄に包まれて、私共は云はば夢の海底に潜つてゐるやうなものだ。ああ、この海底生活は喜ばしい、ここから私共は浮き上らないやうにしたいものだ。

 


 

破れた笛
(Seen and Unseen 1896, 15. WHAT ABOUT MY SONGS? 渓流社版『明界と幽界』15. 僕の詩はどうだろうか)

…眼を開き、地上に影がない。狂気な一寸ばかりの蝶、位を蹴落とされた天人かも知れないが、あたりを彷徨(さまよ)ひ、サーベルのやう光の間に秘密をお喋べりする乾草の上にその影を投げる。 思ふに私共の宇宙も影をどこかに投げてゐるであろう……ああだが私の詩の影は? 若し私の声に最後まで何の反響がないならば、私の破れた喉の笛は二度とはもと通りになるまい。

 



芭蕉
(Seen and Unseen 1896, 18. AH, MY BANANA TREE! 渓流社版『明界と幽界』18. 僕の芭蕉の木!)

 風は陽炎の野から吹いて来る。雲の殿堂から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る。幻の夢の谷から吹いて来る、天と海が溶け合ふ処から吹いて来る。風は悲しみの詩を追ひ廻し、涙の世界へ灰色の歌をうたふ狂人だ。
 私は耳を塞ぎ風の歌を聞かない。私の魂は私の貧しい体に住むひとりぼつちの住者だ……さぞ私の心は寂しからう。
 君は私の門前に立つ一つの勇敢な姿を見たことがあるか、それは死骸を冷たい地上に横たへる破れた芭蕉の姿だ。彼は暗黒を胸に巻き勇敢にこの冷たい世界を見つめてゐたが、彼は今死んで仕舞つてゐる。
 


 

蝸牛
(Seen and Unseen 1896, 19. LIKE A PAPER LANTERN. 渓流社版『明界と幽界』19. やぶれ提灯のよう)

『ああ、友よ、なぜ君は今宵帰つて来ては呉れないの?』
 私はこの小屋、いな、この寂しい世界で只管(ひたすら)に寂しい。
 見ると戸口に、這つてゐる蝸牛は角をかくした………
 蝸牛よ、お前の角を出して呉れ!
 東へ出せ、西へ出せ! 嗚呼真理はどこにあるか………善はどこ光明はどこか。
 夜の闇、いな、世界の闇は私の魂をひと飲みにのみ乾した。
 私はこの雨降る世界の雨降る夜、雨に濡れて糊のはなれた提灯(ちょうちん)の如しだ。

 


 

蟋蟀
(Seen and Unseen 1896, 22. MY POETRY. 渓流社版『明界と幽界』22. 私の詩)

 小川の辺で蟋蟀が鳴き始めると私の詩歌は始まる、
 私の詩歌の第二章は静止の曲だ………
 さてまた、第三章は何であらうか。
 ああ、神様は宇宙一杯の掌を私の原稿紙の上に載せ給ふ。
 主よ、この憐れな僕(しもべ)の為めその掌をのけ給へ。
 私の願は無駄だつた………
 ああ、いつまで私は瞑想をつづけねばならないか。

 


 

独り谷間に於いて
(Seen and Unseen 1896, 25. ALONE IN THE CANYON. 渓流社版『明界と幽界』25. 独り渓谷にて)

 雪片のやうな冷気がかつとおとして降りそそぐ、沈黙を割く夜の青白い風に脅(おびやか)かされて、冷気は眠つた木の間を彷徨(さまよ)つて私が谷間に敷いた寝床に迫つて来る。
「お寝(やす)みなさい、遠く遠く離れた身内の人々よ!」………私は今夜冷気の折り重なるしたに埋まつている。
 風は吹くよ、風は吹くよ。
 弱い柔順な木の葉は口を曲げて唸(うな)る風を恐れて、地上へ逃げて来る。
 ああ、蟋蟀(こほろぎ)の笛も毀(こは)れて仕舞つた。
 家のない蝸牛(かたつむり)は私の枕を上つて、銀のやうに光る私の眼を監視している。
 夜の霧は魚のやうだ、裸かの枝に神秘の花を咲かした………だが、天上の星は一つ一つ愛の焔を消してゆく。
 私はたつた独りだ。誰が今夜私の気持ちを知ることが出来るだらうか。

 


 


(Seen and Unseen 1896, 27. I DELIGHT IN THE SHADOW. 渓流社版『明界と幽界』27. 私は影を楽しむ)

 私は影を喜ぶ、輝く善美のやうに自然で、真実の奴隷のやうに従順で、寂寞の表象とも云へる、又思想の姿だとも云へる。
 私の霊は自分の影の上に横はつて、「運命」が私に立てと命ずるのを待つている。私は自分の体の柱によりかかる一時の訪問者に過ぎないかも知れない。或は私の体を支配する永久の王様であるかも知れない。
 私が一時の訪問者でも又は永久の王様でも、それは私に何の意味を与へるものでない。私は私自身の影と一緒に喜んだり悲しんだりすることを幸福だと思つてゐる。

 


 

寂寞の海
(Seen and Unseen 1896, 32. SEAS OF LONELINESS. 渓流社版『明界と幽界』32. 孤独の海)

 樹木の影に虚空の色がある、その下を私の「自己」が倦怠の雲のやうに、「どこか」へふはりふはりと動いて往く。
 ああ、寂寞の海だ!
 私はこの深さ、否な深さのない深さの顔、否な顔のない大きな顔の上を浮かんでゐるやうに覚える。
 永久に海岸のない、底のない、空のない、色のない、沈黙が波うつ静かな水に、わが過ぎ行く魂の影など有る筈がない。
 ああ、私は知なく愚なく、善も無ければ悪もない、若し私が神様ならば、驚くべき消極的の神様だ。
 沈黙を破る鶉一声………鶉が後の山から寂寞の海へ飛込んだ。
 ああ、何たる声の反響、何たる色の帰還、底も空も再び顕はる!
 何処にも永劫の沈黙はない。この瞬間に私の極楽は遂に亡びた。
 私は喜びも悲みも、愛も嫌悪も、成功も不成功も、美も醜も要らない、ただ冀(ねが)ふ所は「最早なし」に於ける偉大なる「無」の一つだ。

 


 

雨の夜
(Seen and Unseen 1896, 39. AH, WHO SAYS SO? 渓流社版『明界と幽界』39. ああ、そうだったのか?)

 雨は屋根を叩く、私はその響きでびしょぬれになるやうに感ずる………私は沈黙の諧音を失ひ温かい黙想を失つた。私は真夜中寂しい寝床に横たはる。雨は私の部屋の暗闇を乱し飛散させるやうに私は感ずる。
 ああ、雨は屋根に釘を打つ。いな夜の暗闇に釘を打つ、いな宇宙の沈黙に釘を打つ。
 私は失はれた夜の子供であるであらうか、今は最早私の母は私を追つて来ない。彼女の狂乱の涙は尽きた………雨はただ杉の木の枝から滴(したた)る。雨は何を語るのであるか、雨でなく目に見えない不思議な魂の無駄話であるかも知れない。
 「人間は泣くために生まれたものだ」とたれかがいふやうに感ずる。

 


 

「最早なし」の沙漠
(Seen and Unseen 1896, 41. THE DESERT OF 'NO MORE.' 渓流社版『明界と幽界』41. 「無何有」の砂漠)

 無が「最早なしの宇宙」を包むまで、私の魂は暗黒と沈黙、いな神様と住んでゐる。
 ああ、大いなるかな無よ!
 ああ、力強いかな「最早なしの沙漠」よ、そこで数かぎりなき存在が永劫の死に眠り、神様も私の魂も死する所。闇黒も沈黙も死する所………ただ無が最後まで生きる所だ。
 誰が自然の咳払ひする声を聞いたか。
 その声静まる時、宇宙再び寂(せき)として無為にかへり、私の魂は異教徒の殿堂に於いてのやうに、この宇宙の名もない様々の偶像を接吻し廻る。

 


 

敬意
(Seen and Unseen 1896, 49. I AM WHAT I LIKE TO BE. 渓流社版『明界と幽界』49. かくありたい自分)

 私は口を閉ぢる。時間に私を支配する権利がない。私は世界の凡てから離れる。
 私は私の魂の前に跪まづく貧しい修行者だ………知識を忘れ言葉を忘れ思想を忘れ生活を忘れる空虚の僧侶だ。
 私は私の魂の目の窓を閉ぢる、耳の戸口に塀を築く、世界の香気は私の魂の鼻の穴を見舞わない………歓喜悲哀、問答に返答、入る呼吸、出る呼吸も今日は私の魂を煩はさない。世界のすべてが私から遠ざかり行く。私は私の閉ぢた口を再び開かないであろう………それが私の世界への敬意だ。

 


 

英語で書いた若き日の詩想に愛着を持ちながら、歳を重ねた後に日本語で変奏した詩作品。詩の題名も内容も変更されているので対象付けるのはすこし手間はかかるが、各詩の核となる部分の揺らぎなさというものには、本格的な詩人としての一貫性が見えるので、詩人としては尊敬したくなる。

 

詩集 明界と幽界sairyusha.co.jp


野口米次郎
1875 - 1947