読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹西寛子の「永福門院」(筑摩書房 日本詩人選14『式子内親王・永福門院』1972, 講談社文芸文庫 2018)

はじめから大学勤務の国文学者という肩書しかない人物よりも、原稿料で生きてきた上で大学講師ともなったという肩書の作家の書いた歌人評のほうが、書き手の視点や思い入れが色濃く出ていて、独自研究と愛憎の年輪の深さを背景に、読ませる文章を提供してくれることのほうが多い。前提知識なしの一般読者層に向けて、まずは対象となる歌人の作品自体に関心を持ってもらうことがいちばん重要なので、古典作品としての歴史的な位置などよりも、現時点で如何に生きる歌であるか、あるいは、文学史上有名な作品と比べてみても如何に見劣りせず心に響く歌であるのか、ということを紹介する技術と熱量が、文章の生命線となってくるための帰結だろう。
竹西寛子の「永福門院」では、永福門院の歌に込められた憂愁の深さと、その憂いのなかから導き出される稀有な情景を描き出すことが主眼に置かれている。古今集から新古今和歌集を経て玉葉和歌集の時代となった日本の歌の、憂いと雅びの取り合わせの変遷から説きおこし、一挙に永福門院の歌の世界に引き込む冒頭部分の文章構成力から、竹西寛子と永福門院の組み合わせが必然的なものであったという感覚を読者に呼び起こさせ、どんどん永福門院の歌の世界に連れていってもらえる。そのなかでは、京極派の歌風などという文学史的案内はされず、時代の空気感と歌人の個性という、より感性に訴える切り口からの読み解きが展開されている。

紀貫之
夕月夜をぐらの山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらん
藤原定家
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
永福門院:
ものごとに愁へにもるる色もなしすべてうき世を秋の夕暮れ

古今集紀貫之新古今和歌集の定家、玉葉和歌集の永福門院の三首を比較して、優雅な秋の佇まいに心を預けることのできる安心と信頼の心持が、次第に憂愁の色に染まり、世界を覆いつくすようになる様を感覚的に描き、その直後には、和泉式部式子内親王、永福門院の歌を並べることで、時代を下るなかでの世に対する憂いと諦念の深まりを流れるように指摘するという、ハッとするような薫り高い文章が収められている。この間わずか三ページ。時代を越えて残る文章の一典型を見せてもらっているようで、読み返すとどんどん胸騒ぎのようなものが起こってくる。ちなみにこのエッセイでは、武家社会の深まりや室町期に向かうまでの武家社会内での貴族化や文化の中心圏の移動などという史的内容にはほぼ触れられず、さまざまな歌の解釈からのみ永福門院の歌の特色に迫っていて、そこからより鮮やかな永福門院像が打ち出されていることが特徴的である。
実際に永福門院の読んでみると、歌い手の慎み深さに覆われているためもあってか、内面の暗さを直に詠っているであろう作品にはそれほど出会うことはない、というのが個人的な感想ではあるが、基本情緒としての憂いや思い煩いが絵の下地のように働いていることは感得できる。表には直接出てこない下処理から生まれた情緒の基本的な色合いが、歌の主題を描く言葉の合間から漏れ出てくるような傾向の指摘を、一種の「陰翳礼讃」というかたちで提示していることの大胆さには喝采を贈りたい。暗闇に浮き出る明かりの妖艶な美しさの移ろいに、竹西寛子が感応している様子を見ることが、本書の第一関門であるように思う。
先に永福門院を語るにふさわし一首として挙げられた「ものごとに」の一首、暗闇を自明として受け入れつつ詠う潔さの冴えが称えられ、以後あらわることのなかった個性をクローズアップして終わる竹西寛子の女性歌人論のキレは凄まじいものがある。近代化以後の短歌の再興にも接続できそうな結論部の選歌の確かさは、歌心の揺れの大きさとともに印象に強く残る。

うきも契りつらきも契りよしさらば皆あはれにや思ひなさまし
大方の世は安げなし人は憂しわが身いづくにしばし置かまし

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【付箋箇所(講談社文芸文庫版)】
157, 161, 163, 185, 186, 187, 195, 196, 197

永福門院
1271 - 1342
竹西寛子
1929 -
    
参考:

uho360.hatenablog.com