読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宇野弘蔵編著『経済学』(1956, 2019)下巻

下巻は、第二部「経済学説の発展」で原理論の基本概念を補充、第三部「日本資本主義の諸問題」で現状分析の一例を提示。

 

第二部「経済学説の発展」

賃金(貨幣)を得るためには生産過程に入るほかはなく、資本の支配下にあらざるをえない。

奴隷と異なって、買われた労働力はそのまま他に転売されることはできない。それは生産過程で消費されるしかない特殊な商品であり、しかもその使用価値は生産過程においてはじめて実現されるものである。しかもこの生産過程はそれ自身の前後に流通過程をともなって資本の運動の内部で展開される。資本はこのような形で生産を支配するものとなって現れるのである。(第二部第五章の一「資本論」p37)

本来、労働力は商品にするには問題のあるものであるのだろうが、資本主義の次の歴史的段階が実現し定着するまでは、現状の基本設定は変わらず続くだろう。 

 

第三部「日本資本主義の諸問題」

封建時代の農民と同じく中小企業を生きもせず死にもしない状態にしておくという問題。

まずここで、きわめて劣悪な条件のもとで労働力が調達できるというのは、要するに日本の資本主義社会に膨大な過剰人口が堆積されていること、そしてそれらの人口は、完全に失業するよりは劣悪な条件のもとでも労働したほうがまだましだ、といった状態におかれていることに由来するといっていい。(中略)そしてこういう過剰人口は、独占資本のもとではいっそういちじるしくなる。と同時に、零細な資本の所有者は、ますます投資が困難になり、中小企業にその投資口を求める以外には方法がないことになる。他方、独占資本は、このような中小企業の存在が一面ではその独占利潤の源泉になりうるし、他面ではその小ブルジョア的なイデオロギーを政治的に利用する必要性が増大もするので、かえって意識的に中小企業を温存する手段を講じはじめる。いわゆる中小企業対策がそれであるが、それは中小企業の生きもせず死にもしない状態を無限にひきのばすことになり、この問題をいよいよもって解決しがたいものとするのである。(第二部第二章の三「中小企業問題」p222-223)

生殺し状態。「死にもせず」というのはギリギリ倒産はさせないでおくということだろうが、「生きもせず」で使われている「生きる」というのはどのような状態を想定すればよいであろうか? 余裕をもって時間を過ごす、生産過程・流通過程で主体性を発揮できるといったところか。選択肢と選択権がともになくならない状態。つぶしあいが発生しなくても済むような状態。
縮小していく日本の中で、勝負はあっても選択肢が残りつづける世界であることを願う。

 

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内容:

第二部 経済学説の発展(玉野井芳郎)
 第五章 カール・マルクス
 第六章 歴史学派および現代の諸学派

第三部 日本資本主義の諸問題
 第一章 日本資本主義発達史の概要
 第二章 日本資本主義の構造と問題

解説 佐藤優


宇野弘蔵
1897 - 1977
玉野井芳郎
1918 - 1985
大内力
1918 - 2009

宇野弘蔵編著『経済学』(1956, 2019)上巻

上巻は宇野三段階論のうち原理論と段階論が展開される。第一部「資本主義の発達と構造」が段階論+原理論、第二部「経済学説の発展」で原理論の基本概念を補充している。

 

第一部「資本主義の発達と構造」

訓練されて無産者=近代賃金労働者ができる。

自己の労働力を売る以外には売るべきものをもたないという無産者ができただけでは、近代賃金労働者として十分ではない。これらの無産者は新しい生産様式に順応した生活の仕方、すなわち自分の労働力を売ることによって生活することが人間として当然の生き方であり、それが自然な制度であると思うまでに訓練されなければならなかった。(第一部第二章の一「エンクロージャ・ムーブメント(囲い込み運動)」p63)

生産ができなくなったとき、賃金が得られなくなったときのことを考えてしまうと自転車操業的な家庭経済は、こわい。共同体も家族も解体してゆくなかで、個々人がアトムとして存在している様相が強くなってきている現在、労働力ではなくなったときの不安がとても大きい。

奴隷でさえ、一日の生活資料の生産に一日を要しないからこそ奴隷ともなったのであって、いかなる社会においても多少の進歩・発達の見られるかぎり、人間の一日の労働は一日の生活資料以上のものを生産する。ところが資本主義社会は、労働力を商品として買い入れるというばあいに、一日の生活資料を購入しうる賃金を支払えばよいという関係を基礎にして、はじめて確立されたのであって、ここに資本の利潤の源泉も確保せられることになるのである。(第一部第三章の一「産業革命」p103)

機械化の良い面についての別からの捉え方

産業革命の歴史的意義は、生産過程における作業過程の機械化によって、労働者がなお唯一の財産としてもっていた熟練をも奪われ、真に無産労働者たらしめられることにあるのである(第一部第三章の三「典型的な資本主義社会」p145)

現今、資本主義の商品形態・商品経済以外の関係をもつことが進められたりもするが、なかなか自由と安心の幅をひろげていくことは難しい。商品は社会を覆っている。

商品形態は社会と社会との間に発生するものであるが、資本主義社会はかかる形態を労働者と資本家の間にまで拡大することによって、生産過程までを支配することになった。しかしそれはけっして人間がみずから形成する社会関係をみずから支配し、生産物を処理するという社会ではなく、反対に生産力の発達段階に応じて生産物の商品形態をとおしておのずから形成される社会関係によって、生産物を生産した人間自身が支配されるという形態の社会にすぎなかったということ、これである。(第一部第四章の三「帝国主義的政策と国際的経済関係の変化」p213)

 

 

第二部「経済学説の発展」

売れないかもしれないという恐れ、しかし、すべてのものが売れるという世界も選択の余地がない世界のようでそれまた怖い。

労働の生産物はつねに商品として交換されるとはいえない。したがってまたその労働はつねに商品の価値を形成するとはかぎらない。(第二部第四章の三「古典経済学の限界」p310)

労働力の再生産というサイクル以外の領域もしくは視点をどうにか維持確保していくようにしたい。商品ではない私の活動の場の維持確保、言い方を変えてみるならば、商品経済にとらわれない活動の継続実践(たとえば、時には猫のように生きる。時には図書館のように生きる・・・)。

古典経済学は、資本主義社会というものは、単に個々の私的生産がその生産物をたがいに交換する関係にとどまらないで、他人の労働によって生産された生産物を、商品として販売する者と、自らの労働によって生産した生産物の一部を、賃金という形式をとおして、他人から商品として買いもどす者との、いいかえると、資本家と労働者との、市場における売買関係によって根本的に支配せられる社会であるということを、ある程度までは事実として認めていながら、理論的にはついに明白にすることができなかったのである。このように、生産手段ばかりか労働力までもが商品化して、商品が商品そのものによって生産せられるという根底からの商品生産の社会が出現し・・・(第二部第四章の三「古典経済学の限界」p313 太字は実際は傍点)

 

 

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内容:

第一部 資本主義の発達と構造(宇野弘蔵
 第一章 封建社会とその崩壊
 第二章 資本主義の発生
 第三章 資本主義社会の確立
 第四章 後期資本主義への転化

第二部 経済学説の発展(玉野井芳郎)
 第一章 序説
 第二章 一七世紀の経済学
 第三章 一八世紀の経済学
 第四章 古典経済学の確立とその解体

解説 佐藤優


宇野弘蔵
1897 - 1977
玉野井芳郎
1918 - 1985

中村俊定校訂『芭蕉七部集』(1966)

独吟ではない連句を読んだことで、俳諧の師匠としての芭蕉の様子が少しうかがえたような気がした。一瞬で情景を変える句の鮮やかさ、発する言葉の切断力が、門人たちとの格の違いを見せている。

七部集で出会うことのできる門人のなかでは、精神性の高い丈草(丈艸)の句がいいと思った。

 

内藤丈草(丈艸)の句

 『猿蓑』
幾人かしぐれかけぬく勢田の橋
まじはりは紙子の切(きれ)を譲りけり
背戸口(せどぐち)の入江にのぼる千鳥かな
水底を見て来た貌(かお)の小鴨哉
しずかさを數珠もおもはず網代
一月(ひとつき)は我に米かせはちたゝき
ほとゝぎす瀧よりかみのわたりかな
隙明(ひまあく)や蚤の出て行(ゆく)耳の穴
京筑紫去年の月とふ僧中間
行秋の四五日弱るすゝき哉
我事と鯲(どぜう)のにげし根芹哉
眞先に見し枝ならんちる櫻

『炭俵』
大はらや蝶の出てまふ朧月
うかうかと來ては花見の留守居
雨乞の雨氣(あまけ)こはがるかり着哉
悔(くやみ)いふ人のとぎれやきりぎりす
芦の穂や貌撫揚(なであぐ)る夢ごゝろ
水風呂の下や案山子の身の終
黒みけり沖の時雨の行(ゆき)ところ
榾の火やあかつき方の五六尺

『続猿蓑』
角(すみ)いれし人をかしらや花の友
ほとゝぎす啼(なく)や湖水のさゝ濁(にごり)
舟引の道かたよけて月見哉
ぬけがらにならびて死(しぬ)る秋のせみ
借りかけし庵の噂やけふの菊
小夜ちどり庚申まちの舟屋形
あら猫のかけ出す軒や冬の月
思はずの雪見や日枝(ひえ)の前後
鼠ども出立(でたち)の芋をこかしけり

丈草は取り上げられた連句の座にはいなかったようで七部集のなかに下の句がない。 

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冬の日(1684)
春の日(1686)
阿羅野(1689)
ひさご(1690)
猿蓑(1691)
炭俵(1694)
続猿蓑(1698)


松尾芭蕉
1644 - 1694
内藤丈草(丈艸)
1662 - 1704
中村俊定
1900 - 1984

吉川幸次郎『漱石詩注』(2002)

岩波文庫で読む漱石漢詩。今回は青年期の作品が印象深く残った。

漫識読書涕涙多
暫留山館払愁魔
可憐一片功名念
亦被雲烟抹殺過

漫りに読書を識りて涕涙多し
暫く山館に留まりて愁魔を払う
憐れむ可し一片功名の念
亦た雲烟の被に抹殺過さる

帰途口号のうち一首。箱根山を去ろうとしての作。明治二十三年(1890年)、漱石23歳の作品。
(サイボーグ化などして)生きていれば今年2020年、漱石は153歳。果たしてどんなものを書き進めているだろうか?(書いていたら、すくなくみつもっても高橋源一郎水村美苗よりいいものだろうな・・・) それとも、何も書かなくなってしまっているだろうか? 画くらいは描いているだろうか?


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夏目漱石
1867 - 1916
吉川幸次郎
1904 - 1980

加藤郁乎編『芥川龍之介俳句集』(2010)

俳句1158句に数点の連句・川柳作品を収録。芥川の俳句は漱石漢詩のようには精神のバランスをとるように働いてはいなかったようで、死に近づくと制作数も少なくなっている。残念な気がする。

130 山椒魚動かで水の春寒き
222 炎天や行路病者に蠅群るゝ
235 牡丹切れば気あり一すぢ空に入る
518 曇天や蝮生きゐる罎の中
763 昼曇る水動かずよ芹の中

 

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芥川龍之介
1892 - 1927
加藤郁乎
1929 - 2012

東直子『青卵』(2001, 2019)

誘惑しないセイレーンがひとりつぶやくような歌。ひとたび歌の世界に入ってしまうと、静かなさみしい世界に身動きとれずに置き去りにされてしまうようで、心が弱っているときには少し危険。作者は歌いおえてしまっているが、それに応じることはなかなかむずかしい。

肉親が集いて青い魚を食む ひからびてゆく百合を背にして


頭痛薬のみこむようにうなずきぬパパたちだけの中に座って

筑摩書房 青卵 / 東 直子 著

東直子
1963 -

福岡伸一『世界は分けてもわからない』(2009)

「世界は分けてもわからない」といえるには、分けて考えてきた蓄積を知っていることも重要で、その上で、零れてしまうものにも感度を高くしなくてはならない。

生命現象において、全体は、部分の総和以上の何ものかである。この魅力的なテーゼを、あまりにも素朴(ナイーブ)に受け止めると、私たちはすぐにでも危ういオカルティズムに接近してしまう。ミクロなパーツにはなくても、それが集合体になるとそこに加わる、プラスαとは一体何なのか。
(中略)
一体、プラスαとは何だろうか。それは実にシンプルなことである。生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。(第6章「細胞のなかの墓場」p125-126)

「物質的な基盤」を追求してこその認識だと思う。

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福岡伸一
1959 -