はいきょにてはいでがーよむりょうかんき
いんどねつさめてもるりこうじょうどかな
くるぶしをはらしてねればうずくはね
かりょうびんがからからからとかりのこえ
ななくさのうえにひらくはごまのみち
【通常変換】
インド熱冷めても瑠璃光浄土かな
くるぶしを腫らして寝れば疼く羽
迦陵頻伽カラカラカラと假の聲
七草のうえにひらくは胡麻の路
【いじょうへんかん】
略
ジャーナリストの池上彰さんは、どこかの新書で、テレビは見るものではなく出るものだということをおっしゃっていた。いちばんの理由は情報収集にかかる時間面でのコストパフォーマンスが悪いためということだったと思う。当事者の意見なので、そんなものなのだろうと思って記憶している。
本書、ブルデューの『メディア批判』はワイドショー批判として今も通用する基本的な視座をコンパクトに提供してくれている(主として商業主義批判)。大勢はこの20年間では変われなかったということの印象もおまけでついて来る。
ジャーナリズムという世界は、大変はなはだしいシニシズムによって特徴づけられているにもかかわらず、多くの人々がモラルについて語ります。社会学者の視点からすれば、モラルというものは、人々がモラルに利害関心を持たせるようにするメカニズム、つまり、構造に支えられるのでなければ、有効ではありません。そして、モラルに対する顧慮等が出現するためには、この構造の中に、モラルに対する顧慮が、支持、補強、褒賞を見出す必要があるのです。(第Ⅱ部 見えない構造とその効果 「テレビの支配力」p99)
「モラルに対する顧慮が、支持、補強、褒賞を見出す必要がある」というところは確かにそうで、何らかのインセンティブが働かないと、何事かに対する個人的な興味関心の持続というところでさえ、すぐ危うさに直面してしまう。
目次:
第Ⅰ部 スタジオとその舞台裏
見えない検閲
見せることによって隠す
情報の循環的流通
時間の無さと 「ファースト・スィンキング」
まったく偽りのあるいは真実を偽った対論
矛盾と緊張
第Ⅱ部 見えない構造とその効果
市場でのシェアと競争
凡庸化する力
視聴率計算によって審判される闘争
テレビの支配力
〔占領者への〕 協力
入場権利料と退場の義務
補遺 ジャーナリズムの支配力
ジャーナリズム界のいくつかの特性
侵入の効果
規範的な小追記
付録 オリンピック――分析のためのプログラム
後記 テレビ、ジャーナリズム、政治
ピエール・ブルデュー
1930 - 2002
櫻本陽一
1966 -
一貫して心身並行論から読み解くスピノザ『エチカ』十五講。日本のマーケットだけで収まってしまうには惜しい一冊。英訳、仏訳されて世界の読者層にも読んでもらいたい。
意志と結び付けて人間の自由を理解することは、道徳的思考のもっとも典型的で基本的な表象である。それは、知性(必然性)を超えた作用として意志(自由)を考えていることになる。この限りで意志こそ、まさに諸悪の根源であると言える。何の生産性もない超越の争い、その原因はすべて意志の自律的理解にある(その典型は、何よりも信仰にある)。それを自分たち自身のうちにもち込んで、たしかに疑似問題の解答に明け暮れている人間がほとんどである。つまり、それがあらゆるゲーム性の根源なのである。(第一五講義「人間の自由について――ただ自由意志からの解放にのみ存すること」p348)
超越のゲームを闘わないという闘いをゲームの規則にもちこむ内在の戦略。スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズと共闘する江川隆男の言説は堅固で熱い。ニーチェ、ドゥルーズの言説の熱さに連なる江川隆男の熱さに感動するとともに、どこまでも静謐なスピノザの言説にはあらためて驚く。
フェリックス・ガタリの機械状記号論を補助線に語られる「結論」の言語論も圧巻。
目次:
序論 批判的で創造的な
第Ⅰ部 〈人間‐身体〉は何をなしうるのか
第一講義 人間身体の価値――二つの座標系
第二講義 実在性の変移――身体と感情について
第三講義 非十全なものの実在性
第四講義 身体のプラグマティック
第Ⅱ部 〈特異性‐永遠なるもの〉の生成について
第五講義 感情の強度
第六講義 感情と理性との内包的反転
第七講義 様相の変革――習慣から生活法へ
第八講義 感情から概念へ
第九講義 人間身体の本質の触発――死と永遠
第九講義 附録―─戦略哲学としての『エチカ』の折れ目
第Ⅲ部 〈神‐自然〉とは何か
第一〇講義 神あるいは自然について――人格神でも創造神でもなく
第一一講義 神の論理学的構成――特性から構成へ
第一二講義 神の自然学的構成――構成から産出へ
第一三講義 神の力能論的構成――形相的原理と想念的原理
第一四講義 精神と身体の価値転換的並行論
第一五講義 人間の自由について――ただ自由意志からの解放にのみ存すること
結論 実践から戦略へ
一回試行の確率空間って、日々の生活とか歴史の歩みのことを言っているようだ。
理系の学者でうまい文章を書く人はとても魅力的で、普段は思いもつかないようなことを示唆してくれる。
適当に訓練された数学者は、数学的理論に対して’数学的審美眼’ともいうべき価値判断の特有の能力を持っている。不思議な点は、科学を素材にとった’数学’には、以外にもこの’数学的審美眼’に訴えるものが多い上に、すでに存在する数学にまさしく適合吸収されるものも多く、一方また、純粋に数学的な目的のために建設された数学が、いち早くどこかの科学からその適切な言葉として引き抜かれてゆく、ということであろう。それは、とくに最近の物理学との間において著しい。ヴァイル(Weyl)は、このことを評して’今世紀(二十世紀)にはいってからの数学と物理学の進歩の仕方を見ると、その間に予定調和があるのではないかとさえ思わせる’といっているが、これは数学者すべての実感でもあろう、と思われる。(10「偶然を処理する―確率と統計」p423)
「予定調和」ってとこまで言ってしまっていいものだろうかと外野からちょっと心配もする。別分野の研究の成果が境界を越えて一点に収束していくのはあり得ることではあろうけれども、それは人間が理解可能なものの範囲があまり広がっていないことにもなるのではないかと漠然と感じたりする。
数学の大きな信条の一つは、あらゆるものの、’記号化’ということである。(2「光は東方より―代数学の誕生」p86)
抽象化能力によって世界を記号化、モデル化して解釈する。すでに記号化されたもののなかで新たな事象を再解釈しながらも、取り込めないノイズを感知して新たな記号でモデル化していく。文系の感性で想像するに、科学者もおそらく新たな記号を作りたいという欲望も持ちながら仕事をしているのではないかと思う。萩原朔太郎が萬葉集を読みながら、新しい枕詞をひとつでも創造したい、と考えたように。いままでの美しい記号の配列に審美眼の多くを負いながら。今時点での抽象化能力を最大限に発揮して。多に新たな一を付け加えたいと願いながら。
目次:
1 幾何学的精神―パスカルとエウクレイデス
2 光は東方より―代数学の誕生
3 描かれた数―デカルトの幾何学
4 接線を描く―微分法と極限の概念
5 拡がりを測る―面積と積分法の概念
6 数学とは何か―ヒルベルトの公理主義
7 脱皮した代数学―群、環、体
8 直線を切る―実数の概念と無限の学の形成
9 数学の基礎づけ―無限の学の破綻と証明論の発生
10 偶然を処理する―確率と統計
吉田洋一
1898 - 1989
赤攝也
1926 - 2019
左翼を自認する社会学者ウォーラーステインが提示する希望をこめた未来世界のモデル。
資本主義システムの決定的な欠点は、私的所有にあるのではなく――それは単に手段にすぎない――商品化にある。商品化こそが資本の蓄積において不可欠の要素なのである。今日でさえ、資本主義的な世界システムは完全には商品化されてはいない。そうしようとする努力はなされているにもかかわらず、である。しかし実際のところ、われわれはそれとは別の方向に進みうるのだ。大学や病院(国営にせよ民営にせよ)を営利機関に転換するのではなく、どうしたら製鉄所を非営利機関――すなわち誰にも配当を支払わない自己維持的な組織――に転換できるかを考えるべきなのである。これこそが、より希望のある将来の姿であり、それは実際いますぐにでも始めうることなのである。(第Ⅲ部 どこへ向かっているのか 「左 翼Ⅱ―― 移行の時代」6脱商品化に向けて行動する)
原書発行から17年、資本主義システム世界は、窮乏化法則が進み国家側の体力も落ちているためか、補助金などに頼らずに自力運営できる体制を強化するように大学や病院にも迫る方向に進んでいるように見える。だが、単純に失望や無力感に襲われてっしまっては、自己責任推進側の責任移行に消極的に加担するだけになってしまう。ここは、平然と数百年単位の先も見据えて、脱商品化、脱営利企業化にほんのりと希望を持っていたほうが良い。数百年かかって現在の資本主義の世界ができあがったのだから、別の体制にはっきり移行するのにも時間がかかると思っていた方が良い。
これからの方向性として、NPO法人などの非営利組織が増えたりしている状況について、未来に向けての道筋を確保するために各方面の知識を仕入れておいた方がいいかもしれない。たとえば、現在私が働いているシステム業界・プログラミング業界では、法人組織レベルから一般エンジニアレベルまで、無償の環境あるいは無償の道具(ソフトウェアやライブラリ、デバッギングツール)を使わせていただいているケースはかなり多い。20年前に比較すればはるかに商用製品に触れる割合は減っているような気がする。それは、この業界のオープンソースの伝統や金銭以外の報酬系(エンジニアとしての技術評価環境)の充実、選択肢の多いライセンス等の法体系の整備によるところが大きい。楽しくて非営利でしていることが、他者に評価され承認されていることが他業界に比べれば体感しやすい業界であるとは思っている。評価の厳しさは増している部分もあるけれども… 他業界でも、金銭以外での何らかの報酬系が明瞭に存在するようになれば、生産物の脱商品化、労働の脱商品化が緩やかではあるが進んでいく可能性は十分にある。それがいまより楽な世界かどうかはまた別な話になりそうだが…
目次:
序 過去と未来の狭間にあるアメリカン・ドリーム
第Ⅰ部 テーゼ
1 アメリカ合衆国の衰退 ―― 鷲は散り墜ちた
第Ⅱ部 交錯する修辞と現実
2 二十世紀 ―― 「真昼の暗黒」?
3 グローバリゼーション ―― 世界システムの長期的軌跡
4 レイシズム ―― われわれの却罰
5 イスラーム ―― イスラーム、 西洋、 そして世界
6 他 者 ―― われわれとは誰のことか、 他者とは誰のことか
7 民主主義 ―― レトリックか現実か
8 知識人 ―― 問われる価値中立性
9 アメリカと世界 ―― 隠喩としてのツイン・タワー
第Ⅲ部 どこへ向かっているのか
10 左 翼Ⅰ―― 理論と実践再論
11 左 翼Ⅱ―― 移行の時代
12 運 動 ―― 今日、 反システム運動であるとはいかなることか
13 二十一世紀的ジオポリティクスにおける諸断層 ―― 将来世界のかたち
後言
1 正義の戦争
2 「衝撃と畏怖」?
イマニュエル・ウォーラーステイン
1930 - 2019
山下範久
1971 -
ヴィトゲンシュタインの言葉に接した後は、記号に触れていると感じた場合のざわつきがひどい。意識に上ってくる言語を聴くという行為にさえ、いつもとは違う解釈のフィルターを通しているような違和感が続く。言語記号に対する構えが無意識に立ちあがり、言葉が粒だってきて物質感が強くなるのだ。気になって仕方がないので、鎮魂になるかも知れないと思い、ひさかたぶりにデレク・ジャーマンの映画『ヴィトゲンシュタイン』をDVDで鑑賞した。
結果、どうなったかというと、ヴィトゲンシュタインは異質な世界を生きた異人ということで少し諦めがついたというのが正直な感想だ。平均的な人物ではない。とてつもないブルジョワの家庭の子息として生まれ、知性にすぐれ、性的にはマイノリティ、精神的には病的気質がうかがわれる。没個性的な個体として社会のなかに沈殿するような人間との差異は明らかだ。どちらが生きやすいということは究極的にはないのだろうが、やはり別世界の住人だという認識ができたところで、あきらめがつくとともに、あらためて交流させていただきたいという想いが湧いた。一個人の印象としてはヴィトゲンシュタインの気質にはゴッホが重なる。生まれが良く、理系気質で、ケンブリッジというそれなりに肌に合う環境に恵まれて、天寿をまっとうできた奇跡的な一生があったが、ちょっとしたきっかけで自裁、活動中断というゴッホ的な人生の可能性もかなりの確率であったはずだ。そうならずに、我々は彼の哲学的業績に触れることができている。そのことに感謝しなければならない。
テリー・イーグルトンが脚本に参加した本作品は、やはり、ヴィトゲンシュタインの言葉・論理が主役で、異語としてのヴィトゲンシュタインの生のみちゆきが容赦なくせまってくるのだが、映像作品に固有の救い・美しさというものがあって、そこで鑑賞者は大きく息をつくことができる。ロジックの厳しさを包摂するような、美しく深い漆黒の背景。映画の空間以外ではなかなか出会うことのない深く濃い奥行きのある空間。前面で演じられる人間の劇とともに、劇空間を支える濃密な黒さを感じることができる。映画の映像を見て、映画の言葉を聞いた、という感想をもつことができる75分。
デレク・ジャーマン
1942 - 1994
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン
1889 - 1951