読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ヘーゲル『哲学入門』(ニュールンベルクのギムナージウムでの哲学講義 1809-1811, 武市健人訳 岩波文庫版第1刷 1952) 旧字で避けられてしまうのはもったいない優れた訳業

哲学界の大物ヘーゲルの著作にしては珍しくコンパクトにまとまっているこの著作の中身確認で、好奇心から1952年第1刷発行の岩波文庫ヘーゲル『哲学入門』の不特定ページを開いてみると、旧字の物々しさに「やっぱりダメかも」とたじろいでしまう人も多いかもしれないが、巻末の書誌情報を見るに自分以外にも本書を読んでいる人は沢山いて、現代日本においても半世紀以上コンスタントに版を重ねている信頼の置ける古典なんだよなという読み始めの支えとなる思いもわいてきて、いっちょ読んでみますかと意を決めて読みはじめてしまえば、練達の訳者武市健人による本書で二度目となる訳業の成果としての現代仮名遣いのこなれた訳文は、旧字もまあ乗りこえられるという向きにはなんというかヘーゲル自身が用意した内容の質を落とすことなく参入の閾だけを低くして哲学のいただきに誘い迎え入れてくれている贅沢な哲学体験コースの案内書という感じのするテキストで、読みすすめていくなかほのかに感じる軽快感あるいは爽快さについては、出会うこと稀なかなり特異な体験ではないかと、読了後は満足しながら振り返ってみることができる。

講義の講師ヘーゲルが自身で用意し、当時の生徒が採ったノートの息遣いも合わさったところの文章は、実際の現場に居合わせなかったものにも現場の空気感が伝わるほどほどよく凝縮され、1ページ弱のセクション分割によって哲学の伝達教授の呼吸のリズムにも乗せられて、これは最高級の知性の芸を見せてもらっているのかもしれないと感じつつ、それ自体は動きはしない文字の数々を次々と辿ってしまうという経験をつくりだしてくれているというしっかりとした厚みのある言語空間・言語領域。

表現を尽くした人々たちの手になる言語記号が満足のいく量塊としてあり、それを受け止め味わうことのできる幸せ。そこに、訳者であり注釈者である武市健人の手になる、セクション末尾ごとの長年の研究からみちびきだされたヘーゲル読解のためのコンパクトな追加記述が、心地よい合いの手のような効果まで付け加えてくれている。

これまでヘーゲルに関しては、比較的手に入りやすい『精神現象学』や『法の哲学』には目を通していたものの、実際には実になる読書にはなっていなかったようで、疎隔感ばかりが残ってしまっていたのだが、この『哲学入門』では、ヘーゲル哲学入の門者としてはじめて無理なく手をあげ参入することができたような気がしてきた。次の一歩が無理なく踏み出せそうな、とりあえずの達成感。

本書におけるヘーゲルヘーゲル研究者兼訳者武市健人の共同作業のベストパフォーマンス部分を選ぶというのはちょっと難しい作業だが(難しいというのは、ある程度まとまりのある流れや分量が広範囲にわたるため、引用に適した部分の選択切り出しがちょっと難しいという意味)、たとえば以下のようなとろは間違いなくひとつのサンプルになるだろうと私は思う。

神は絶対精神である。すなわち神は純然な本質である。純然な本質というのは、それは自分を対象とするが、しかしその対象の中にただ自分自身のみを直観するものだということである。云いかえると、それは他のものに成ることにおいてそのまま自分自身に帰還し、自分自身と同等であるようなものである。


武市健人 訳注】
神が絶対精神であるということもヘーゲル哲学の根本思想である。そしてその絶対精神である神が「他のものに成りながらも、何時も自分自身に帰っている」ものであり、神自身においては増しも減りもしないという考えが元にあって、そこから論理学その他の反省関係のむつかしい論理的表現が出て来る。それで、この宗教論に現われている根本的な点を、私たちは見失わないようにしておく必要がある。


ヘーゲル『哲学入門』 武市健人岩波文庫 第一課程 法理論、義務論、宗教論 第三節「宗教論」p120 太字は実際は傍点)

 

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自力でヘーゲル自身に向き合うためには、もってこいの導入書となるのではないかと思う。


ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
1770 - 1831


武市健人

1901 - 1986