読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宮下志朗『モンテーニュ 人生を旅するための7章』(岩波新書 2019) 執筆期間20年、総ページ数2400超の『エセー』をゆるくつまんでみませんかという訳者からのお誘い

宮下志朗は『エセー』のあたらい翻訳者。みすず書房の抄訳、白水社の全訳を経ての、岩波新書での導入ガイド。しっかりした分量の引用が多く、解説もしっかりしているので、いいとこどりの名所ツアーに参加しているような気分になる。宮下志朗も親しみやすい名物ツアーガイドのようで気楽に楽しめる。

モンテーニュを読んでいて、わたしのような凡庸な人間が救われるのは、あまり厳しいことをいわれないからだ。彼は人間存在というものは、矛盾もあるし、欠点もあると思っている。それで仕方ないじゃないかとも思っている。
(1―1 人間はだれでも p27 )

ハードルは低く設定して、コアとなる一面も外さない気の利いた案内。もしかしたら趣味はわかれるかもしれない。

それにしても、「だらしなく軟弱に」死んではダメなのだろうか、それでいいじゃないかと、わたしなどは思ってしまう。生き方に厳しい人は、死に方にもきびしいということだろう。いずれにせよ、モンテーニュ派とパスカル派は、あまり相性が良くはない。
(コラム6 モンテーニュというライバル――パスカル,ルソーなど p200-201 )

 

宗教戦争とペスト禍と中年以降の病身と、勘弁してくれというくらい辛いことに見舞われても、折れることなくやり過ごすすべを教えてくれている、世界的に通用している古典『エセー』の最新の案内。二十一世紀以降の日本向けと、読者ターゲットが狭いのがちょっと残念なくらいによく出来たモンテーニュお試し本。

 

宮下志朗訳のモンテーニュ

みすず書房モンテーニュ エセー抄』 2003, 新装版 2017

www.msz.co.jp

 

白水社『エセー 1~7』2005 - 2016

ミシェル・ド・モンテーニュ - 白水社

 

 

www.iwanami.co.jp

 


【付箋箇所】
27, 34, 56, 72, 98, 129, 175, 190, 200

 

目次:

まえがき

序 章 モンテーニュ,その生涯と作品
第1章 わたしはわたし――「人間はだれでも,人間としての存在の完全なかたちを備えている」
 1―1 人間はだれでも
 1―2 「わたし」を抵当に入れてはならぬ
 1―3 おしろいは顔だけで十分
 1―4 「店の奥の部屋」を確保しよう

第2章 古典との対話――「わが人生という旅路で見出した,最高の備え」
 2―1 ローマ人とともに育てられたミシェル
 2―2 書物,人生という旅路の最高の備え
 2―3 昼型の読書人,夜型の読書人
 2―4 セネカ vs.プルタルコス
 2―5 ソクラテスに徳の輝きを見る
 2―6 ソクラテス的な知のありようとは

第3章 旅と経験――「確かな線はいっさい引かないのが,わたしの流儀」
 3―1 どこか遠くへ行きたい
 3―2 旅することの快楽
 3―3 死の隠喩としての旅
 3―4 旅は人間を知るための最高の学校

第4章 裁き,寛容,秩序――「わたしは,人間すべてを同胞だと考えている」
 4―1 真実と虚偽は,顔も似ている
 4―2 拷問とは危険な発明
 4―3 寛容の精神,世界市民として
 4―4 「変革」をきらうモンテーニュ

第5章 文明と野蛮――「彼らは,自然の必要性に命じられた分しか,望まないという,あの幸福な地点にいるのだ」
 5―1 野蛮と野生
 5―2 自然と人為
 5―3 はたしてどちらが野蛮なのか
 5―4 野蛮人から文明人への眼差し
 5―5 文明化と相互理解

第6章 人生を愛し,人生を耕す――「われわれはやはり,自分のお尻の上に座るしかない」
 6―1 なにごとにも季節がある
 6―2 「愚鈍学派」でいこう
 6―3 病気には道を開けてやれ
 6―4 老いること,死ぬこと

第7章 「エッセイ」というスタイル――「風に吹かれるままに」
 7―1 探りを入れる,彷徨する
 7―2 引用する,借用する,書き換える
 7―3 「ぴったりとは合わない寄せ木細工」とソクラテス
 7―4 「エッセイ」の誕生

コラム
 1 ラ・ボエシーとの友情,喪の儀式
 2 『エセー』の陰に女性あり――グルネー嬢とノートン
 3 温泉評論家モンテーニュ
 4 二つの『エセー』――「一五九五年版」vs.「ボルドー本」
 5 モンテーニュの塔を訪ねる
 6 モンテーニュというライバル――パスカル,ルソーなど

あとがき

主要参考文献
モンテーニュ略年譜
『エセー』総目次

 

 

ミシェル・ド・モンテーニュ
1533 - 1592
宮下志朗
1947 -