美学者による幽玄とさびの概念分析。明治以降の西洋近代化の過程で再発見された日本的美についての言説の行きすぎをいさめつつ、個々の作家、作品、評釈を読み直すことで、実際に使用される言葉の用法からおのおのに込められた美意識を拾い、その適用範囲を超えない限りで言葉の意味を問うというスタイル。かなり地味で論じる範囲も狭い論考なのだが、批評としての効力は意外と大きい。有るものだけを語れ、言い過ぎるな、という主張はもっともだからで、地味でも小さくても効く。
この独自性にしても、本書で見てきたように、たいていのばあいそれは、時代をこえたある実体としての「日本人」の気質ないし本質をなすという意味で「日本的」といわれるようなものではなく、俊成や定家や世阿弥や芭蕉といった、なるほど日本人にはちがいないがあくまでも個人に帰せられるべきものである。これを「日本的」美意識というとしても、それはあくまである時代の和歌や能や俳諧の領域で共有された美的フレーミングを身につけた個人が、それぞれ独自に創造し展開した美意識の省略語としてなのである。
( 終章「省略語としての「日本的なるもの」」p296 )
西洋の象徴主義の作品と重ねることも、日本的本質として幽玄やさびを語ることも、普遍的なものをはじめから想定してしまっている点で個別の作品がないがしろにされる傾向をもつ。普遍や実体を想定することなく個々の作品や評釈を読むことのほうが作品自体や評釈で使われている言葉に対しては誠実であり適当でもある。
本書では特に俊成の「幽玄」と「艶」と芭蕉における「さび」と「しおり」についての論考が、量質ともに充実していた。芭蕉の「さび」については、日常生活における避けがたいリアルな事象に目を留め慰撫しつつ肯定するときに使用される標語というように語られるのだが、これは本書の批判対象の一人として挙げられている大西克礼の『美学』における「さび」の分析とほぼ同じといっていいかと思う。大西克礼は「さび」という概念を西洋美学の中に位置づけるとしたらどのようになるかということで「フモール(ユーモア)」の一形態として普遍的に位置づけようとしていて、芭蕉の作品自体を蔑ろにしたりことさら褒め上げるようなこともしていなかったと思う。普遍的体系を指向する中での一概念の位置づけの叙述であるか、個別分析の成果としての叙述であるかの違いで、作品を読むということにおいては二人(というかふたつの著作)はそれほど違っていないように思える。
西村清和
1948 -
【付箋箇所】
2, 4, 7, 19, 20, 21, 36, 6981, 106, 108, 113, 114, 129, 157, 172, 184, 230, 233, 261, 279, 284, 285, 286, 287, 314
目次:
序章 日本的美意識
1 幽玄と象徴
2 芭蕉の「象徴主義」
3 能と『新古今集』
4 「日本的なるもの」
第一章 俊成の幽玄
1 歌合の評語
2 余情と幽玄
3 判詞における幽玄
4 美的概念
第二章 俊成の艶
1 『源氏物語』の艶
2 感覚語と感情語
3 判詞における艶
4 幽玄と艶
第三章 定家の妖艶と世阿弥の幽玄
1 余情妖艶と新古今調新風
2 本歌・本説取り
3 三句切れ──疎句の詩法
4 物語りと描写──「劇化の術」
5 物語的構想歌と語りの視点
6 景情の照応と象徴
7 気分象徴と象徴主義
8 〈情況=情態性〉の造形
9 定家以後と世阿弥の幽玄
第四章 芭蕉の「さび」
1 俳諧の笑い
2 貞門と談林
3 蕉門の連句
4 芭蕉の発句
5 切字と疎句化
6 「取合せ」と「とりはやし」
7 主体の出現
8 俳諧の誠
9 「さびしほり」
10 フモールと苦微笑
終章 省略語としての「日本的なるもの」
参考: