先日ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』(原著 1962, 国文社 1974)をちょっとした永遠回帰の実践のつもりで足立和浩訳で久方ぶりに読んでみた。現在流通している訳書は河出文庫の江川隆男訳(2008)だが、珍しく学生時代に購入した書籍が残っていて、その際同時に読んだ解説がしっかりしていたので足立和浩の現在が気になって調べてみた。デリダの『グラマトロジーについて』やブルトンの『通底器』、サルトルの『弁証法的理性批判』などの訳者でもあり、相当の目利きであり実力のある研究者であろうと思うのだが現時点で名前をあまり聞かないと思ったら1987年に46歳という若さで亡くなっていた。Wikipediaによると、門下生として西谷修、内田樹がいるらしく、教育者としても見逃せない人であるだろう。現在ではあまり語られることも読まれることもない足立和浩ではあるが、単に忘れ去ってしまうには惜しい人であろうというおもいが働き、近くの図書館で手に取ることができる単著を読んでみた。
本書『知への散策 <現代思想入門>』は白水社の雑誌『ふらんす』に連載したエッセイとその後『ユリイカ』『現代詩手帖』『現代思想』に掲載されたブランショ論3篇をベースとしたもので、一般読者層に向けて書かれた比較的ざっくばらんで思想史的な永遠を目指していない書き方の書。「はじめに」と題された文章には次のようにある。
意識と無意識、正常と狂気、反人間中心主義と想像力、知と権力、パロールとエクリチュール、自然と文化、アトミズムと相互主観性、等々に関して、諸家の具体的分析に従いつつ、いたずらな枝葉は切り捨て、その本質的道筋を失わぬよう「紹介」に努めたつもりである。
紹介するにあたっての著者ならではの特徴は、現実的な圧力からの逃走線を笑いや遊戯の領域を見据えて軽やかに引いていこうとする文章スタイルにあるように思えた。読後に特に印象に残ったのは、現実とのねじれた関係を基本姿勢として持つオナニストとしてのルソーとジャン・ジュネと、現実の不在に関わる想像力の思想を展開したサルトルに関する記述。確かなものと考えられているもののなかでの不確かなものの痙攣的な主張のきらめきの存在があまり力まれることなく描写されている。扱われている人物たちのスケールを考えてしまうと腰が引けてしまうところを、本書は軽やかにサッと触れるくらいに紹介するにとどめているが、著者が思うところの見どころはきちんと射抜いているようだ。
「真面目さ」に対する「笑い」を重視したのが足立和浩の思索の核心と言えそうなのだが、本書はおそらくその入り口部分を示したにすぎず、より多くを肯定するであろう本格的笑いの思考は別にもしかすると残されているのかもしれないと思わせもする一冊であった。
【目次】
Ⅰ
相互主観性のエクリチュール ラカンの場合
エクリチュールと権力 フーコー、レヴィ・ストロースの場合
エクリチュール・オトマティク ブルトンの場合
エクリチュールと想像力 サルトル、デリダの場合
零度のエクリチュール バルト、サルトルの場合
死のエクリチュール ブランショの場合
仮面のエクリチュール レヴィ・ストロースの場合
狂気のエクリチュール リヴィエール、フーコーの場合
Ⅱ
戯れのレクチュール ブランショの文学空間
言語の消滅 ブランショによるマラルメ
存在、歌、言葉 ブランショとハイデッガー
【付箋箇所】
9, 31, 42, 97, 105, 114, 174, 219
足立和浩
1941 - 1987