読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アラン・バディウ『倫理 <悪>の意識についての試論』(原書 2003, 河出書房新社 2004)

ドゥルーズデリダ以後の最大の哲学者と言われるモロッコ・ラバト出身のフランスの哲学者アラン・バディウの小品。余裕を持ったレイアウトで本文は150ページ程度、新書一冊分の分量。主著『存在と出来事』(原書 1988)と『世界の論理』(原書 2006)の中間に位置する作品でもあり、バディウの思想の概要を知るためには効率のよい作品なのではないかと感じた。ちなみに私がバディウに触れるのは『思考する芸術 非美学への手引き』(原書 1998)につづいて二作目となる。芸術を対象にした『思考する芸術』よりも主体や倫理を対象にした本書のほうが、書き方を含めて読み取りやすかった。

ドゥルーズデリダ、あるいはラカンなど先行世代の思考と概念を引き継ぎつつ、どちらかといえばより図式的に論理展開してくれているところに軽快さを感じもする(これは『思考する芸術』にもあった特徴)。たとえば先行世代の諸作品や、日本においては蓮實重彦が『フーコードゥルーズデリダ』で対象とした思考とおなじ圏域をめぐって作品が書かれているにも関わらず、蓮實重彦が言うところの「希薄さ」や「残酷さ」や「執拗さ」や「愚鈍さ」など、息苦しさや居心地の悪さに結びつきやすい形容にはあまり馴染まない乾いた距離感がバディウにはある。

本書ではあまり表面化してこないが、数学を基盤に置いた思考の展開がそうさせているのかもしれないし、芸術作品や文章スタイルに対する思考の違いなのかもしれないが、どちらかというと読後に不安感を残さない割り切った理解を与えてくれるバディウの文章には、逆に何か抜け落ちてしまっている畏れなければいけないものがあるのではないかなどと勘繰ってみたりしたくなるところもある。例を挙げるなら、芸術作品に分け入っていくときの、自身が変奏していく際の欲望と嫉妬の強度といったものについては、ここに挙げたバディウ以外の人物たちの特異性に比べれば、あっさりしているようなところ。このあたりのことについては、引き続き本を読みすすめていく中でなんらかの確かな感覚が得られればいいかなと今現在は思っている。

人間は、不死なるものとして、計算‐説明不能なものや所有不可能なものによって、みずからを支えている。人間は非‐存在としてみずからを支えるのだ。みずからに<善>を描き出そうとすることを禁ずることや、<善>に向けて集合的な力を秩序立てて組織しようとすること、思いもかけない可能なるものの到来に向けて働きかけようしたり、現状との根源的な切断において存在可能なものを考えようとすることなどを禁じることは、端的に言って、人間に人間性そのものを禁じることなのだ。
( 第1部 人間は実在するか? 3「<人間>――生ける動物か、不死の特異性か?」p28 太字は実際は傍点)

上記引用は、作品のはじまりにおいて、作品の主題が凝縮されたかたちであらわれるひとつの例。人間の「人間性そのもの」を禁じること或いは抑圧することが<悪>であるというのが本書の基本的な主張であるが、それがどこまでの拡がりをもって150ページのなかに展開されているかを体験することに本書を読むことの愉しみと心地よさがある。「不死なるもの」とは何なのか、「計算‐説明不能なものや所有不可能なもの」とは『思考する芸術』においての「免算」といかなる関係にあるのかなど、読んで考えるに退屈しない内容がつまった一冊である。

 

www.kawade.co.jp


【付箋箇所】
8, 14, 23, 25, 28, 38, 44, 45, 51, 52, 65, 69, 70, 76, 78, 81, 82, 86, 98, 99, 102, 104, 114, 116, 121, 126, 133, 135, 139, 140, 145

目次:
序言
第1部 人間は実在するか?
第2部 他者は実在するか?
第3部 倫理―ニヒリズムの形象
第4部 諸真理の倫理
第5部 <悪>の問題
結論

解説対談 『倫理』の街頭的読み方 長原豊松本潤一郎


アラン・バディウ
1937 - 
長原豊
1952 - 
松本潤一郎
1974 - 

 

参考:

uho360.hatenablog.com