読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

新潮社世界詩人全集12『ディキンソン、フロスト、サンドバーグ 詩集』(新潮社 1968)

ディキンソンの高潔清廉、フロストの荒涼残酷、サンドバーグのいじらしさ。記憶の引っ掛かりとしてのキャッチフレーズをつけるとしたら、今回はこんな感じになるかなと思った。

本書を読んだきっかけは、ロバート・フロストの詩を日本語訳でたくさん読みたい、特に日本語訳単行本のない『少年の心』『ボストンの北』以降の作品、と思って検索して、唯一引っかかって、近所の図書館で借りられたのがこの一冊。ついでにディキンソンとサンドバーグ『シカゴ詩篇』も再読した。

ディキンソンは毎年のように少しずつ読み返しているが、年を重ねるごとに、ただならなさが分かっていくという感じがある。生涯生家の自分の部屋からほとんど出ることもなく、詩だけを書き綴っていたような人生であるのだが、彼女のキリスト教信仰、神への祈りで、聖なるもの聖なる空間と繋がっていることをベースに産み出される言葉の深みには心底驚く。サンドバーグなどにもみられることだが、神への呼びかけによって広がる詩の世界の強固さには、公理系を同じくしない無神論者の一読者としては、ある意味うらやましさすら感じてしまう。真似しても信仰がなければ意味ないし、薄っぺらいバッタものにしかならないので、直接の学習はしませんが、残された言葉の強度だけは感じ取っていたいと思ってはいる。

ブロンズ色に輝いて
北極は今夜
見事な形を示している
みずからに浸りきって
思い煩いにほど遠い
この世界や私への
絶対な無関心ぶりは
私の平凡な精神を
尊厳に感染させ
いつもよりずっと大胆な態度をとらせる

(エミリ・ディキンソン 209番 Of bronze and blaze 部分 新倉俊一訳)

 

フロストの『ボストンの北』以降の作品収録数は以下のとおり。
『山の合間』から4篇
ニューハンプシャー』から6篇
『西へ流れる小川』から6篇
『遥かな山並』から6篇
『証しの樹』から2篇
『スティーブルの藪』から4篇

岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』は全36篇で、うち『ボストンの北』以降の作品収録数は26篇。新潮社世界詩人全集には28編、重複作もわりとあるので、フロストの全作品から考えるとまだまだ少なく、ちょっとっした飢渇感がさらに湧いてきた。もう新訳が出てくることはあまり期待できないけれど、ネット上に愛好家が試訳とか出してくれることにはちょっぴり期待をかけている。

荒寥の地 (部分)

夜の深まる雪のいよいよむなしい白さ
何の表示もなく、あらわすべきものも無い。

星々のあいだのうつろな空間で
このわたしを脅かすことはできぬ――人間のいない星の上からは。
わたしはもっと身近な自分のうちに持っている、
わたしの荒寥の地でみずからを脅かすものを。

(『遥かな山並』「荒寥の地」Desert Places 安藤一郎訳)

 

上記引用詩は川本晧嗣編訳岩波文庫版『対訳 フロスト詩集』では31篇目「砂漠の地」として本文とともに訳出されている。岩波文庫版でフロストに関心を持たれた方は、安藤一郎訳もぜひ。

 

エミリ・ディキンソン
1930 - 1886
ロバート・フロスト
1874 - 1963
カール・サンドバーグ
1878 - 1967
新倉俊一
1930 -
安藤一郎
1907 - 1972

新潮社世界詩人全集でハインリヒ・ハイネの詩を読む(『ハイネ詩集』井上正蔵訳 1968 )

ユダヤ系ドイツ人でカール・マルクスとも交友があった愛と革命の詩人、ハインリヒ・ハイネ。日本語訳からでもほのかに伝わる多彩な詩形式の操り手。『流刑の神々・精霊物語』などの散文から受ける印象にくらべて、詩作品は遥かに軽妙。愛の詩はどうも苦手という人にも、社会風刺をこめた「アッタ・トロル」の物語詩はお勧めできる。一読の価値あり。

ふたつの影 (部分)

自然は私有財産なんか拵(こさ)えなかった
なぜなら おれたち おれたちはみんな
ポケットなしでこの世に生まれた
毛皮にポケットなんぞ付けちゃいない

おれたちは誰ひとりだって 生まれながら
からだの上っ皮に
あんな袋なんか付けちゃいない
盗んだものを匿すために

ただ人間だけが 他人の毛で
着物を作って着ている
皮膚のつるつるしたあの動物だけが
ポケットなんか作ることを心得てるんだ

ポケット こいつが
私有財産や所有権と同様に
不自然なんだ
人間て奴はポケットをつけた泥棒だ

 

(『アッタ・トロル』1842-1847より) 

 

「アッタ・トロル」の語り手は熊。ハイネ自身が「ロマン派の最後の自由な森の歌」と呼んだ愛すべき一作。


目次:
ロマンツェーロ
ドイツ冬物語
新詩集
アッタ・トロル
歌の本
詩集補遺

 

クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ
1797 - 1856
カール・マルクス
1818 - 1883
井上正蔵
1913 - 1989

【言語練習 横向き詩片】くうふくさとりいれる

くうぶんかしたちかいをあらためてもじかすると
うっとうしいおもいあがりがはなをついてこまり
ふるいおとしてあらたないきにであおうとおもい
くだらなさにほほえむじこまんぞくからははなれ
さいていのせんをのぞきこみかつえのしんをみる

く う ふ く さ と り い れ る

『ルカス・クラーナハ 流行服を纏った聖女たちの誘惑』(八坂書房=編/伊藤直子=文 2016)

同一主題の作品を複数並べて紹介してくれているところがありがたい。

マルティン・ルターの肖像:4点
ヴィーナス:7点
ルクレティア:4点
ユディット:5点
サロメ:2点

妖艶な姿態に無機質な相貌をもつ妖しい女性象の魅力はもちろんのこと、男性の肖像も、衣装や装飾品の豪華絢爛さとともに非常に魅力的に描かれていて、五百年の時を超えて、見るものの感覚をうちつづけている。もうひとつ驚いたのは、題材とした物語から出てくるであろう差異よりも、画面を構成する男性像女性像の振幅の少なさあるいは同一性であった。メトロポリタン美術館の『ホロフェルネスの首を持つユディト』とブタペスト国立美術館の『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』は、ほぼ同じモデルを使って同じ美を描こうとした作品のように見えて仕方がない。ユダヤ民族の英雄ユディトと母親にいわれるがままの行動をとる娘サロメはまだ持ちものや衣装に若干の差があるが、表情からは感情を読み取れない典型的なクラーナハ特有の女性像で、違いの少なさにちょっとしたショックを受ける。そして、それよりも驚くのは、ユダヤ民族を責める将軍ホロフェルネスと洗礼者ヨハネの首にあらわれるうつろな表情、精気の抜けた瞳、憐れに開いた口が、まったく同じ人物のもののように見え、二人の人物の生前の生き方の違いがまったく感じられないところ、描き分けていないところが逆に意味ありげに見えてくるところだ。戦士と聖人が斬首された後、見分けがつかないうつろな男の首になってしまっているのは、けっこうショッキングな発見だった。

 

八坂書房:書籍詳細:ルカス・クラーナハ

目次:
1.画家の生涯
2.女神と聖女の物語
 *アポロとディアナ
 *ヴィーナスとアモル
 *パリスの審判
 *ヘラクレスとオンファレ
 *ルクレティア
 *アダムとエヴァ
 *ユディト
 *サロメ
3.貴族と聖女の宮廷ファッション

 

ルカス・クラーナハ(ルーカス・クラナッハ
1472 - 1553
伊藤直子
1954 -

 

【雑記】天使はいない

おそらく天使は目を閉じない
閉じる必要がないから
そういえば天使は必要ないものばかりでできている
だからほんとうは存在しない
パウル・クレーがひいた線が
かろうじて天使を主張している程度だ

マルティン・ハイデッガー『放下』(原書1959, 理想社ハイデッガー選集15 辻村公一訳 1963)

「計算する思惟」と「省察する思惟」「追思する思惟」を区別するハイデッガー。二系統の思惟の違いが本当にあるものかどうかよくわからない。計算の中にはシミュレーションもフィードバックの機構も組み込むことは可能なので、機械的な思考と人間的な思考のいずれかがより有効かということは簡単に判別できることではないだろう。単純か複雑か、表層的か深層的かは思惟ということだけでくらべたらおおかた量的な問題に収まってしまうのではないかと思う。機械と人間の本質といったものを比べるなら、CPUと脳の差異、機械と身体といったところで思索を展開してくれた方が刺激的だと思う。たとえば、『間主観性現象学』で身体に徹底的にこだわっているフッサールの議論のほうが、言語や人間本質の神秘性のようなものに逃げない徹底的に脱色された思惟のあり方を提示していてくれて、現代的な人工知能の議論にも直結しているような印象を受ける(現在、ちくま文庫版の二巻目を読み取り中)。

『放下』におけるハイデッガーの言葉には、洋の東西を問わない僧侶的な抹香くささのようなものがある。東洋的にいえば空の思想のようなものと類似性があるような感じを受ける。

私共は次のことをなし得るのであります。すなわちそのこととは、私共は諸々の技術的な対象物を使用しますものの、それらを事柄に適わしく使用しつつもなお且同時に、それらに依って私共自身を塞がれないように保ち、何時でもそれらを放置する、ということであります。私共は諸々の技術的な対象物を、それらが使用されざるを得ない仕方で、使用することが出来ます。併し、それと同時に、私共はそれらの対象物を、最も内奥の点と本来の点とに於ては私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つことが出来ます。
(『放下』p25 原文は旧字旧仮名)

 ハイデッガーは主として原子力のことを念頭において、上のような論を展開している。原子力にかんしては放射性廃棄物を含め「私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つ」ようになればいいなと漠然と思うのだが、技術的な対象物としてのエネルギー、社会インフラとしての電力については、「何時でもそれらを放置する」などとはほぼ誰もいわないだろう。社会インフラとしての電気、ガス、上下水道の混乱があるところで長い時間生活を続けるようなことは、「私共は」もうできなくなっている。密教の行者のような生活を万人に期待するのは無理だ。技術は技術で改善しながら自然本質と人間の社会生活によりよい妥協点を見いだしていってくれた方がありがたい。技術の運用において不具合が起こるのは、技術自体の問題というよりも政治経済側の理由によることの方が多いはずだ。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
辻村公一
1922 - 2010