読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『放下』(原書1959, 理想社ハイデッガー選集15 辻村公一訳 1963)

「計算する思惟」と「省察する思惟」「追思する思惟」を区別するハイデッガー。二系統の思惟の違いが本当にあるものかどうかよくわからない。計算の中にはシミュレーションもフィードバックの機構も組み込むことは可能なので、機械的な思考と人間的な思考のいずれかがより有効かということは簡単に判別できることではないだろう。単純か複雑か、表層的か深層的かは思惟ということだけでくらべたらおおかた量的な問題に収まってしまうのではないかと思う。機械と人間の本質といったものを比べるなら、CPUと脳の差異、機械と身体といったところで思索を展開してくれた方が刺激的だと思う。たとえば、『間主観性現象学』で身体に徹底的にこだわっているフッサールの議論のほうが、言語や人間本質の神秘性のようなものに逃げない徹底的に脱色された思惟のあり方を提示していてくれて、現代的な人工知能の議論にも直結しているような印象を受ける(現在、ちくま文庫版の二巻目を読み取り中)。

『放下』におけるハイデッガーの言葉には、洋の東西を問わない僧侶的な抹香くささのようなものがある。東洋的にいえば空の思想のようなものと類似性があるような感じを受ける。

私共は次のことをなし得るのであります。すなわちそのこととは、私共は諸々の技術的な対象物を使用しますものの、それらを事柄に適わしく使用しつつもなお且同時に、それらに依って私共自身を塞がれないように保ち、何時でもそれらを放置する、ということであります。私共は諸々の技術的な対象物を、それらが使用されざるを得ない仕方で、使用することが出来ます。併し、それと同時に、私共はそれらの対象物を、最も内奥の点と本来の点とに於ては私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つことが出来ます。
(『放下』p25 原文は旧字旧仮名)

 ハイデッガーは主として原子力のことを念頭において、上のような論を展開している。原子力にかんしては放射性廃棄物を含め「私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つ」ようになればいいなと漠然と思うのだが、技術的な対象物としてのエネルギー、社会インフラとしての電力については、「何時でもそれらを放置する」などとはほぼ誰もいわないだろう。社会インフラとしての電気、ガス、上下水道の混乱があるところで長い時間生活を続けるようなことは、「私共は」もうできなくなっている。密教の行者のような生活を万人に期待するのは無理だ。技術は技術で改善しながら自然本質と人間の社会生活によりよい妥協点を見いだしていってくれた方がありがたい。技術の運用において不具合が起こるのは、技術自体の問題というよりも政治経済側の理由によることの方が多いはずだ。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
辻村公一
1922 - 2010