読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『形而上学とは何か』(原書 1929, 後語 1943, 緒論 1949 理想社ハイデッガー選集1 大江精志郎 訳 1961) 「何故一体存在事物が在って、却って無ではないのか」

フライブルク大学教授就任にあたっての公開就任講演。内容が「無」と「不安」という概念をめぐるものであったため、講演後にニヒリズムの思想ではないかなどといった非難や誤解が多く発生、そのため、後に「後語」と「緒論」を追加することになった。その間二〇年の歳月が流れているが、基本的にハイデッガーの思想は変わっていない。ハイデッガーの思想は基本的に初期から変わらない。「存在」一本槍の根源的な思考圏内のなかに滞留している。

 

【講義】1929
無が有るというのはどういうことか、と考えると無は相手にするのが大変な概念である。存在しないなにものかとは、なに? 観測不能とか観測地平の外とか言ってくれたほうが、存在という観測境界線をめぐる挑戦としては分かりやすいのだけれど、ハイデッガーはそうは言ってくれない。

無は存在事物の総てを非認することであり、端的に非-存在事物である(p41)

不安が無を顕示する。
我々は不安のうちに「浮動する」。一層明瞭にいえば、不安は全体としての存在事物を辷り去らせるから、我々を浮動させるのである。なおこの点に含まれていることは、我々自身――この存在する人間――が存在事物のただ中にあって、我々を一緒に辷り去らせるということである。(p49)

 「全体としての存在事物」というのはキリスト教的な考え方でいいかえれば被造物全体ということになる。さて、「全体としての存在事物」はどこへすべりさる? 無へ?

 

無は全体として辷り去りつつある存在事物と「一緒に」生ずると。(p52)

 「無」はある時「生ずる」。

 

無は、人間存在にとって、存在事物への対立概念をもたらすのではなく、むしろ根源的に存在事物の本質そのものに属しているのである。(p54)

 「属している」ということで、こちらでは「無」は存在事物の中にある。すこしずらして共にある。「存在事物」の「顕示性」として措定される「無」。

 

無は我々にとって最も卑近にまた最も多くの場合、その根源性において姿を変えている。(p55)

 「無」には「姿」があり、それは変わることができると言っている。

 

隠された不安の根拠によって現存在が無の中に保たれていることが、人間を無の場所の占有者たらしめる。(p59)

 「無の場所」と言っている。空間が前提されているような表現である。空間は有の側のものだろう。無を有の側の事物である言語で表現しようとしているところからとてつもない困難が発生しているのであることは分かる。

 

「従って純粋存在と純粋無とは同じである」。このヘーゲルの命題(論理学第一巻、全集第三巻七四頁)は正当である。存在と無は合一する。しかしそれはその両者が――思考についてのヘーゲルの概念からみて――それらの無規定性及び直接性によって一致する、からではなくして、むしろ存在そのものが本質上有限的であり、且つ無の中に保たれている現存在の超越においてのみ、自らを顕示するからである。(p62)

 「無」はニーチェがいうところの「カオス」のようなものであうか。カオスの中に立つ現存在すなわち人間が、認識上の超越を機会として存在を感知もしくは思惟するというメカニズム。そうした中での「無」と「存在」の同一性の言挙げ。しかし、そうであればここで語られているハイデッガーの「無」は、完全な非存在ではなく、やはり観測不能ななにものかというほうに近い。

現存在の無において初めて、全体としての存在事物はそれの最も本来的な可能性に従って即ち有限的な仕方で、それ自身に到達する。(p63)

 「無」は無というよりは無限であって、人間(現存在)の領域で有限化することで「存在事物」としてあらわれる。

何故一体存在事物が在って、却って無ではないのか。(p66)

 人間(現存在)がいるから、人間という思惟しつつ超越する観測者がいるから、ということではどうか。もしくは人間が言語をもってしまったからということが現時点での私の回答とはいえない回答で、その場合最後の問いは次のように変換される。「言語とはなにか」「観測者とはなにか」「抽象化作用とはなにか」。現時点で観測不能、思考不能なことは、手持ちのもので容易に解決してはいけないということだけは分かっている。

 

【後語】1943

我々は、各々の存在事物に対して存在することを保証するところのものの広さを、無において経験する、唯一の用意を整えなければならない。かく存在事物に対すし存在することを保証するところのものが、存在そのものである。存在の底知れぬ深さであり、しかもなお展開していない本質が、我々に本質的不安において無をもたらすのであるが、かかる存在なくして、あらゆる存在事物は、それの存在喪失のうちにとどまるであろう。(p72)

 存在の「展開していない本質」が「無をもたらす」ということであるので、「無」は端的な無ではなく人間にあらわれるところの「無」であり、「不安」の感触、気分とともにある。

 

その思考(引用者注:本質的思考)は、存在事物をもって存在事物を計算する思考に反して、存在において存在の真理のために、力を浪費するのである。(p77)

 人間に役に立つ「計算」ではなく、役に立つかどうかわからない「真理」をめぐって思考は「力を浪費する」。よくわからないものに対して思考の「力を浪費する」気概は大切だ。でも、どう考えてもハイデッガーの「真理」は人間中心の真理のような印象が拭えないので、全面的に教えを受けるという態度に私はならない。

【序論】1949

人間の実存的本質は、人間が存在事物をそのものとして表象し、且つ表象されたものについて意識をもちうるということに対する根拠である。すべての意識は、脱我的に考えられた実存を人間の本質として前提する。その場合の本質は、人間が人間である限り現成するところのものを意味している。(p20)

 やはり「表象」についていろいろ考え、読みすすめていった方がよさそうだ。


その他:
訳者の大江精志郎はハイデッガーの思想には東洋思想特に禅と通じるものがあるということを言っているが、それにならって言うと、ハイデッガーは龍樹ナガールジュナの反転した論を展開しているようにも思える。一方は存在で、一方は空、そしてそれぞれ言語に関する思考を中心に据えている。言語についてそれぞれ徹底した思考を展開しているという点で、私にとっては二人ともに貴重で偉大な先達であり、また興味深い存在でもある。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
大江精志郎
1898 - 1992