読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

4連休なのでジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を柳瀬尚紀の訳で読んでみる その9:「飲んだら読むな、読むなら飲むな」

原典ノンブルによる進捗:501/628 (79.8%)

飲んだら読むな、読むなら飲むな。そんな作品が存在する。

TVショーでのお笑いは、視聴者のセンスがよほど崩壊していない限り酔っていても十分楽しめるけれど、読書においては読み手の読み取りの能力が少しでも減退してくると、何が面白いのか判別できなくなるという事態が起こる。読書の世界では、この文章でどの辺の笑いをねらっているのかという、「笑われる/笑かす」の二重構造の看取がわりとすぐに追っつかなくなる。この辺は「評価/非評価」の軸を野暮ったく説明してくれる哲学的な論述のほうが、酔っぱらいには優しい。

自己責任で考え、文脈を評価するというのは、エンターテインメントとしての読書にとって本当は一番の危険領域なのだと思う。なぜならそれは本質的には提供者側のコントロールの対象外になってしまうから。基本的読解力はかなり細分化されて対象化され囲い込みのうえ、マーケットとして出現し、並行して実在化するのだろう。


という以上の文章は、なにゆえ四日で『フィネガンズ・ウェイク』を読み終えられなかったかの状況説明。何故、読書を優先して飲酒を控えられなかったかといえば、まあ、ほとんど気にされることもない計画行為だし、契約による金銭授受が発生しているものではなかったから。でも、本当の本当は見積もりミス。こんなに脇道に逸れてウロウロする読書になるとは思っていなかった(何故にその語彙を調べるか?)。金銭授受が発生する仕事であれば、寄り道禁止でまずは読了・レポート提出を目指すのが我が信条ではあるが、これは趣味なので、持続可能な時間進行を優先させていただく。現在の進捗は80%程度。あと、二日ぐらいはかかる予定。


四日を過ぎて投げ出していないということだけでも、『フィネガンズ・ウェイク』と柳瀬尚紀の訳業の癖になる面白さをご想像していただけるとありがたい。直接的に役には立たないかもしれないが、緩衝材緩和剤としての言語の存在を思い出すスイッチがあるということを知ってもらうとうれしい。なにはなくともまともにむきあえば、週七日のワンサイクルが、特異な言語状態とともに過ぎる。ほぼ自分の中で生成されることのない言語と共に時間を過ごすことができる。



ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
1882 - 1941
フィネガンズ・ウェイク』 Finnegans Wake
パリ、1922 - 1939
柳瀬尚紀
1943 - 2016