読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

4連休なのでジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を柳瀬尚紀の訳で読んでみる その10(延長1回ゲームオーバー 「わが時は樽生なり。汝の時を瓶詰にせよ。」):最後の小説と「フィネガンズ・ウェイク九句 七、八の段」

原典ノンブルによる進捗:628/628 (100.0%)  2020.07.22(水曜夜)~ 07.28(火曜夕)

おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(芭蕉

循環する小説とされる『フィネガンズ・ウェイク』をワンセット読み通した今、達成感よりもかすかな哀感が滲んできている。それは読書人としての心残りがひとつの消えたことと、楽しい遊びが一回終ってしまったことがもたらす感情なのだと思う。芭蕉の鵜舟の句の詞書に「やみぢにかへる、此の身の名ごりおしさをいかにせむ」とあって、心情としてはそれに近い。

フィネガンズ・ウェイク』は「最後の小説」と言われることもある。80年代に登場し、今も現役の作家である高橋源一郎は、『フィネガンズ・ウェイク』刊行時の河出書房の宣伝ブックレットのなかでこう書いている。

真実が暴かれる――我々が書いていたのが「最後の小説」の後のもの、「小説のようなもの」にすぎなかったことが。

「最後の小説」の後にも小説は書かれる。「小説のようなもの」として。ただ、「小説のようなもの」のなかにはヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)もカルヴィーノ大江健三郎中上健次高橋源一郎もいてそれぞれ唯一無二の顔を持っていた。『フィネガンズ・ウェイク』が特級の化け物だとしても、化け物じみた作品は、その場その場で一回限りの小説の反復として生まれ出ている。昨今その生産力は低下してきているような印象も受けはするが、それは単に読み手側の老化が問題かもしれない。

「最後の小説」の後にも小説は書かれる。最後の小説の後に来るのは何か? 「反復」(キルケゴール)あるいは「永劫回帰」(ニーチェ)としての小説なのだろう。最後の小説は常に最初の小説でもあり、最初の小説は「孵化付加反応」(原典ノンブル 614 邦訳通しノンブル p763)をもって再生する。そもそも『聖書』が最初の書物かつ最後の書物という相貌をもっており、そこに『フィネガンズ・ウェイク』を最後の小説かつ最初の小説として意識するなら、私たちがいるのは『聖書』と『フィネガンズ・ウェイク』がともにある世界である。英語圏では1939以前にはなかった世界、日本語圏では1993年以前にはなかった世界で、まだまだ新しい。どの強度の「反復」が、どの強度の「永劫回帰」が、そしてどの強度の「突然変異」が現われてくるのか、連綿と続く言語生成の流れの中で、命あるうちは新たに生まれ出る言葉に接していきたいという欲望はまだ消えていない。『失われた時を求めて』の全訳が井上究一郎につづいて鈴木道彦、また吉川一義によってなされているのが日本翻訳界の現状だ。現在、『フィネガンズ・ウェイク』は新刊書店では手に入らない状況にありはする。ただ、いつ柳瀬尚紀につづく訳者が現われるかわからない潜在力を日本は持っているように思う。柳瀬訳から27年、柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』読者世代の研究者が自分の読解と翻訳能力を見せつけてくれることだって近未来に訪れることがないとは言えない。死なないうちは気長に期待して待つ。気が向いた時には柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』を再読しながら・・・


フィネガンズ・ウェイク九句 七の段】
山で(アー麺類食うぞ)ジャパニーズ
ねえ来てと男体女体山が呼ぶ ※男体女体山=なんたいにょたいやま
芦雪画く(お泥おどろき)(牛まなこ)※牛=ぎゅう 
(トーテムじゃ)(縛獏貊狼)(餓痛痒)※縛獏貊狼=ばくばくばくろう
(鰭鮫)で(愚為ぐい)とやる(老いで臥す) ※老いで臥す=おいでぷす
散歩中ふと考える如雨露の字
(神酒わめ)て三番叟踏むピクト君
(写しゃり出)よ獺祭的な錯列法
(妖見なシェー!)(誤植言惑)(秘處やか)に


フィネガンズ・ウェイク九句 八の段】
政治には(嗜眠体質)(大失態)
夢魔ぐるし)(鰻うねりに渦巻いて)
匂い立つ無念(更地のなにもかも)
(ぐにゃなえ)て渡る世間は鬼ばかり
サブライム(基礎悪堆)のこの暮らし
さみなしの>°))))彡おお(魚鈍)
(妖精と、二偽りぎんたま、ほうっとけ!)
釈迦の火に(奮い蹴り飛ぶ! 蛙かな!)
栄光は(孵化付加反応)連綿と


ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
1882 - 1941
フィネガンズ・ウェイク』 Finnegans Wake
パリ、1922 - 1939
柳瀬尚紀
1943 - 2016