本読みは本を読みながらその途中で人生を終える。作家は本を読み本を書きながらその途中で人生を終える。翻訳家は本を読み翻訳をしながらその途中で人生を終える。区切りのよいところで人生を終えるということは自然の摂理にしたがってる限りそうそうあるものではない。書物を通してひとの人生の表向きの部分に触れることができる読書空間では、本を読まない人にくらべれば圧倒的に人の死のまぎわの生きざまに触れることが可能だ。そのことだけでも本を読むということの至福はある。河出書房新社の柳瀬尚紀訳ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ1-12』は未完の仕事。全18章のうち12章までの訳業で、分量的には前半部にすぎないが、既存訳とは全く異なる作品観を提示してくれている。これは原語だけで読むものには味わいがたい他言語による解釈の重層化、批評的な視点を含めた作品解釈の重ね合わせ的提示になっていると考えられる。
柳瀬尚紀の新訳を軸にした『ユリシーズ』再読の連休初日の進捗は、『ユリシーズ1-12』通読完了+丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳『ユリシーズ』第13章「ナウシカア」読了まで。柳瀬訳の自在でユーモラスな作品提示に比較すると、旧訳の訳文の硬さや注釈の入る渋滞感、解釈に要する時間的効率のちがい(鋭さ/鈍さ)のようなものがあり、二つの訳業をおなじ原作品に収束するという印象にはいたらない。個人的にはスピード感があり諧謔味の薄れることのない柳瀬訳に、圧倒的に軍配を挙げたい気分ではあるのだが、現時点で日本語環境において複数訳が存在している現実のめでたさのほうをもっと強調したほうがよいかもしれない。いざとなれば原文のジョイス的英語に触れながら、複数の解釈者による日本語環境での変換表現に触れて、自分自身の日本語表現に、奇妙でありながらどこかうまみのある果実を取り込む。ジョイスや柳瀬尚紀とともに生きるということは、実際に読んだものだけが生きることのできる記号の空間で、その記号空間に関しては、新規参入者を歓待するための義務が現享受者には不可避的に与えられている。旧訳にはない喜びはなにか、といった新規参入者歓待に関わる言説は、しかしながら今はすこしおいて、とりあえずは現シリーズでの読了を優先したい。完結を前提としない今時点での文字記号表現の充実と、作品通読後の表現全体の組み替えあるいは統一感の受領をまずはめざしてみたい。
本日の進捗:
読書時間:AM9:00~PM25:00(実質14~15時間)
・『ユリシーズ』(柳瀬尚紀訳12章+旧訳1章)
・朝風呂+夕風呂時の読書:バウムガルテン『美学』§141まで
※味わいがかなり複雑な『ユリシーズ』には、学の黎明期の比較的素朴な『美学』を合せたらいいかなという選択
前日は小野恭子『ジョイスを読む』の20代の論文と、小田部胤久『西洋美学史』の第三章「内的形相 プロティヌス」あたりまでを呑みながら読んで、寝落ち。
柳瀬尚紀訳 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ1-12』(原書 1922, 河出書房新社 2016)
【付箋箇所】
61, 94, 128, 190, 213, 289, 304, 324, 424, 476, 482, 489, 513, 517, 524, 558