読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なのでユリシーズと美学の本を読んでみる】02 連休3日目通読完了:丸谷才一ほか訳『ユリシーズ』後半(13から18章)読了後の虚脱と祝杯のなかブログを書く

変則的な訳者訳書構成ではあるがジョイスの『ユリシーズ』の通読完了。ひさびさに「全体小説」©ジャン=ポール・サルトルということばが思い浮かんできた。「全体小説」は、サルトルジョイスの『ユリシーズ』などの先行作品を想定して作り上げた概念(自作の試みは未完の『自由への道』:未読)。「人間を,それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」©ブリタニカ国際大百科事典と定義されている。「総合的・全体的に表現しようという試み」の含意の中に、内容ばかりでなく記号表現の全体ということも入っているのだなと、実地をもって示してくれているのが『ユリシーズ』という作品で、神話から現代小説にいたる文体史の取り込み、史的な適応領野の形式と媒体ごとに異なる各種表現スタイル、英語をベースに各種複数言語が取り混ぜられた混交言語表現、さらに言語の歴史と18種ともいわれる各国語に通暁したジョイスが切断混交研磨変形を施したジョイス独自の語彙ジョイス語をちりばめ、圧縮重層化した全体を想起させる表現が、日本語訳という二次的創作物であっても読む者の感受性に訴えかけてくる。凄いというかおそろしいというか、表現の幅の広さと奥行きの深さに圧倒される。

 

今回読書の日本語訳内訳と実体験データ(2021年現在いちばん流通している物):
※おそらく、私以外の人には一番有用になりそうな実地体験データ

読了までの想定時間は34時間なので、法定労働時間で考えると4日分強の分量(←計算違いしていたので修正)。
※賃金換算して、割に合わないと思うか、自己投資と思うか、純粋な余暇の贅沢と思うかは、ひとそれぞれ。

 

前半:(1~12章)
柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1~12』(河出書房新社 2016)全572ページ 通読所要時間:(実質12~13時間)

www.kawade.co.jp

丸谷才一ほか訳(集英社本サイトの情報は少ないので紀伊国屋書店にリンク:ちなみに私、アフィリエイトはやってません)
第01挿話~第08挿話 687

www.kinokuniya.co.jp


第09挿話~第13挿話 725

www.kinokuniya.co.jp


集英社文庫ページ数をみると想定していたものよりかなり多い。たぶん活字ポイントがデカいのだろうが実物を見ていないので想像にすぎない。ページ数をみると、なんだかドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、もしくは、モンテーニュの『エセー』などと分量としてはほぼ同じ階級なのかも知れないと読後あらためて感じる。集英社文庫版換算で1時間に100ページにとどきそうなペースであればかなり早い。柳瀬尚紀、やはり恐るべき存在。

ちなみに河出書房新書世界文学全集の丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳 ジェイムズ・ジョイスユリシーズ Ⅰ』は柳瀬尚紀ユリシーズ 1~12』とおなじく12章までで下二段組み全471ページ.

後半:(13~18章)
河出書房新書世界文学全集の丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳 ジェイムズ・ジョイスユリシーズ Ⅱ』(河出書房新社 1964)上下二段組み全476ページ
 通読所要時間:
  第13章    2021/07/22 51ページ  2時間弱
  第14~16章 2021/07/23 268ページ 12時間弱
  第17~18章 2021/07/24 158ページ  8時間弱

 

文庫版該当箇所:
丸谷才一ほか訳(集英社本サイトの情報は少ないので紀伊国屋書店にリンク:アフィリエイトではない単なるリンクです)
第14挿話~第15挿話 663

www.kinokuniya.co.jp


第16挿話~第18挿話 620

www.kinokuniya.co.jp

 

1.読書にかかる時間と訳の質
日本語訳の『ユリシーズ』のなかでいちばん読み通すのに時間をかけて根気よく読まなくてはならないのは、おそらく14章「太陽神の牛」。柳瀬訳は対象範囲外、旧訳担当は丸谷才一。二世代くらい前の有名な文学者、小説家。好き嫌いは人それぞれだと思うけれど、一般的には一級で、ある傾向の代表者として批判対象にも取り上げられるような存在。

くだくだしく注をつけることは、むしろ読者が『ユリシーズ』に参加することの妨げる結果にさえなろう。役者たちはそれ故、解釈を中の形ではなく、文体それ自体によって表現したいと願った。
第十四挿話「太陽神の牛」の英語文体史のパロディないしパスティーシュによる構成を、和臭がつくことを恐れずに敢えて、『古事記』『萬葉集』にはじまり現代へと至る日本語文体史のパロディないしパスティーシュという形で訳したのは、このような考え方の最も露骨な現れなのである。

河出書房新書世界文学全集の丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳 ジェイムズ・ジョイスユリシーズ Ⅰ』(「解説」p470 )

これはいまさら言っても詮無いことなのだけれど、『フィネガンズウェイク』にもっとも近い印象を受けるこちらの第14章「太陽神の牛」は、ぜひとも柳瀬尚紀訳でも読み、丸谷才一訳と比較してみたかった。訳業に関して「考え方の最も露骨な現れ」が現われる古典のパロディーとパスティーシュ、読みやすさと味わいと文化的差異照応を含めた解釈について、言表レベルで比較すると柳瀬尚紀丸谷才一は同じことを言っているように思えるが、私のこれまでの両者作品消化状況を考えてみると、柳瀬尚紀のほうが翻訳の仕事に関してはこだわりが強いように思える。それにかんして、いまは個別に比較ができないけれども、12章までの訳業の読みのスムースさと、『フィネガンズウェイク』の訳業の統一感と、丸谷才一訳「太陽神の牛」に感じる消化不良感のため、丸谷訳の「太陽神の牛」は乗りずらい。したがって読み取るのに時間もかかる。パロディーやパスティーシュの日本的移植を目指したのであれば典雅と滑稽の中間を行く訳文であって欲しいのに、丸谷訳にはなんだか貧乏くさくてどの古典かと疑いたくなるような訳が混入している印象も持った(←あくまで私見)。

柳瀬尚紀の翻訳のこだわりに関してはこちらも参考にしてください。

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com


2.全体小説

ユリシーズ』は「全体小説」である、というふうに考えると、その全体の中には私もいるはずだ、ということに思いいたる。私の意識は文体的には内的独白の男性系統(レオポルド・ブルーム、スティーブン・ディーダラス)もしくは第12章の「俺」(柳瀬尚紀解釈だとオス犬)に、私の社会的客観的存在は男性系統の外面的自然描写に、タイプとしては主役級の人物とは年齢も立場も意識もだいぶ違っているので、脇役のだれかしらにたどり着く。自己判断すると、第7章にでてくる植字工、第9章にでてくる図書館職員、あるいは第16章にでてくる客を待つ二輪馬車の馭者といったところ。『ユリシーズ』の舞台時間は1904年6月16日のダブリン市内で、電車は施設されているけれども家電などはまだ開発普及されていない時代。日本では日露戦争の時代。「植字工」なんていまはいないだろうけれど、私が現在所属しているシステムエンジニアプログラマ職の相当の部分は植字工とあまり変わらない、正しく配置されるべきところに正しいユニットをしかるべく置くという仕事。そして仕事の合間に接触する人間の人間関係に関心をもったりあえて近づかなかったりというのもまったくおなじ構造。自分の実際の存在も、文字記号を使って表現することの現在も、100年以上前のジョイスの時代と直結してしまうところが、まったく違う時代を生きているようにも思えるときもあるのに、とてもこわい。

 

長くなってしまったので(飲みながら3時間くらい書いて終らないので)、書ききれなかったことはまた後日。

 


ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
1882 - 1941
柳瀬尚紀
1943 - 2016
丸谷才一
1925 - 2012