読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

志村ふくみ『晩禱 リルケを読む』(人文書院 2012)

染織、紬織での人間国宝、志村ふくみが綴るリルケ。ここぞというところで使用されている「裂(きれ)」という記号がどこか聖性を帯びていて、これは敵わないなあと思いつつ読み通す。
2012年刊行なので、88歳、米寿での作品となる。それも、敵わない。なによりリルケを読む精神の強さ、瑞々しさ、頑固さ、貪欲さ、戦略的準備、組立ての堅牢さ、鬼気迫るとまでは言わないが特別な熱量はひしひしと伝わってくる。
60代で成った古井由吉の散文的解釈による『ドゥイノの悲歌』全訳にも匹敵する読み手のなかにあるリルケの存在感にひととき呆然としてしまうような時空間が現出されている。

志村ふくみが本書で取りあげるリルケは、『時禱集』『マルテの手記』『ドゥイノの悲歌』という、かなり精神的にも言語活動としても極限を目指しているとき作品であり、そのときに生まれた言語を解読するために、ロダン論や「セザンヌ書簡」ほか様々な書簡、あるいは『神さまの話』などが召喚されたり、かなり用意周到な姿勢が感じ取れる。それにもかかわらず、本書の叙述は執筆年代順の作品をさもはじめて読むかのような体裁をとっているため、リルケにあまりなじみのない読者層にもそれほど敷居の高くない案内であり解説の書ともなっている。『ドゥイノの悲歌』の読解時には、東日本大震災福島第一原発事故が起こったこともあって、何者かからの委託に対する応答への使命と、禍々しさを生む無知と専横への告発とが、より強く表明されていたりする。その怒りの発出しているところについては、十年後の今時点で読んでみると、状勢的にも表現的にもすべてをまっすぐ同調できずに逡巡している自分を見出したりもするのだが、利便性と社会体制の維持と社会変革の設計のあいだでの無知と無力からくる一市民としての困惑が再燃したりしながら、一歩を踏み出してみる使命感も持てずにいるのだから、志村ふくみと感じかたが違っても致し方ない。

この地上に存在するということは実に信じられないほどあり得ないことだ。それに地上に存在するすべてのものがわれわれ人間を必要としている。なぜなら人間こそ言葉をもつ存在だからだ。言葉はすべての生命のはじまりである。「この地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ。されば語れ、告げよ。」
(すべての天使は怖ろしい―ドゥイノの悲歌 「第九の悲歌」p228 )

『ドゥイノの悲歌』第九歌の人間の存在を語る使命というものに打ち震えつつも、「地上に存在するすべてのものがわれわれ人間を必要としている」というものいいについては、ほとんど信用できないでいる。それほど必要とはされていないだろうと、ほとんど信用できないのだが、人間の使命としてはそれしかないことを認めたいという思いもある。存在を詠いあげ、ともに時を過ごし、歓ぶことぐらいしか、この世での仕事はないんじゃないかと思ってもいる。だが委託の声、召命の声は聞こえていない。志村ふくみのようには。声が聞こえ、声に応えざるを得ないひともいて、その人の言動を、自分とは違う人の言動を、そういう人もいるのだなと参考にさせていただいている。

 

www.jimbunshoin.co.jp

【付箋箇所】
33, 39, 44, 50, 74, 82, 102, 137, 142, 146, 199, 206, 228

目次:
巡礼
私は感ずる、できる―時禱詩集
孤独と絶望からの再生―マルテの手記
すべての天使は怖ろしい―ドゥイノの悲歌
あとがき

ライナー・マリア・リルケ
1875 - 1926
志村ふくみ
1924 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

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