読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アウグスティヌス『主の山上のことば』(原書 393-396, 熊谷賢二訳 上智大学神学部編キリスト教古典叢書8 創文社 1970)

マニ教から新プラトン主義を経てキリスト教に辿りついたアウグスティヌスによるマタイの福音書「山上の説経」の解釈書。『聖書』は書かれた言葉そのものの相において読むのではなく、象徴的に読み解く必要があることを知ったことから聖書読解に劇的な展開を見せて回心したアウグスティヌス。その彼がマタイの福音書を綿密に読むことで紀元四世紀末の宗教と思想の世界に向けて放った闘争の書のひとつ。新約の時代におけるキリスト教の意味を確定し枠付けしようとした闘争の書。

何に対する闘争かというと、基本的には、原罪、神に対する傲慢に対しての闘争ということがいえると思う。

被造物としての埒を越えて自力で何事かをなせると思ってしまうことに対する戒めの再喚起。

東洋的な考え方に当てはめると、絶対他力の思想信仰にあたると考えられる。

絶対的な救済の能力を持つ者に対する無条件の帰依。

絶対的受動を受けいれる姿勢を準備する能動的なつつしみ。

他力は自力の徹底的な排除によるので、マゾヒスティックなまでの自力排除、他力請願に帰着する。

キリスト教においては、イエスの受苦受肉によって原罪の許しが与えられたとされるところに、他力信仰が一点に集中する構造となっている。

十字架への全面的な依存。

依存ではあるのだが、自力の徹底的な否定による謙遜によって、創造主を蔑する最悪の傲慢が避けられ、創造の行為が肯定されているところに幸福の道が開かれている。

超越的な創造主による原初の創造の行為に全面的には賛同できない者にとっても、自力の行為の絶対的相対化は意味を持つ。

自身の行為は、行為の生ずる環境あってこそのもので、自身がすべてを創造したものではない。創造された環境のなかではじめて生じたもので、善いも悪いも、自身の判断ではなく、与えられたもののなかで与えられるがままに受容すべく用意されている。

受容の心構え、すなわち絶対神に対する他力信仰、これがアウグスティヌスの思想の基本姿勢なのだろうと本書を読むことで確認できた。

他力の力は、自力の否定、自力の否認。なるべくしてなることの肯定であり、受容であり、祈願の失われることのない持続信仰である。


【付箋箇所】
1, 6, 8, 9, 37, 61, 78, 94, 122, 140, 166, 190, 196, 214, 218, 223, 225, 258, 278, 304, 322


アウグスティヌス
354 - 430