読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョルジョ・アガンベン『王国と楽園』(原書 2019, 平凡社 2021 岡田温司+多賀健太郎訳)

アダムとイヴが追放された楽園と神の王国(天国)と原罪をもつ人間の関係性を論じながら、アントニオ・ネグリとは少し違った角度からマルチチュード(多数者)による地上楽園の実現としての社会変革を支えるひとつの理論として書かれた書物という印象をもった。キータームはアヴェロエス(イブン・ルシュド)に由来する「可能知性」だろうか。

個人の幸福も人類の幸福も、固有の活動を働かせることに存するが、この固有の活動は、知的な潜在能力[可能知性]を現実化することに対応している。カンツォーネ「心のうちでわたしに語りかかける愛は」が明らかにしようと心を砕いているように、その知的な潜在能力のなかで、愛は「その活動をおこなっている」。
(第4章「神の森」p99-100 )

可能知性の現実化には愛が必要だということであるようだ。愛するもの、愛着するものがあり、その愛の行為としての「固有の活動」を自ら愛し、愛着することが幸福につながると言ってくれているようだが、なかなか自分も愛の対象も幸せになるような活動をすることは難しい。一方通行にもならないひとり踊りのうちに頽れて怨念化してしまう危険といつも隣り合わせのようになっている。

訳者岡田温司の解説の言葉によると、本書は以下のように要約される。

ヒエロニムス・ボスの《悦楽の園》にはじまり、「原罪」をいわばでっち上げるアウグスティヌスへの痛烈な批判と、スコトゥス・エリウゲナによる巧みなアウグスティヌスの転倒、そして反スコラ主義者としてのダンテ解釈で頂点に達する本書は、いってみれば異端の書である。
(「異端者としてのアガンベン ―― 訳者あとがきにかえて」p173 太字は実際は傍点)

キリスト教徒読者として一番驚くのは、異端の疑いをかけられることを恐れつつも独自の思索を展開するエリウゲナを扱った第三章「人間はいまだかつて楽園にいたことはなかった」だろう。神学の厳密で厳格な展開のなかで、主流の教説を転倒するための巧みな戦略をもった論説は、高圧力下ではじめて生成される希少な物質のようで、諸宗派が林立併存して学問的緊張もなくなってしまったような仏教界と比べると、主流の教学の強さというもの、本流を転換させようとするところにもしっかり根付いている論理性と整合性の強さにクラクラする。ゆるぎない聖書と次々と生成された仏典との違いなどを思いつつ本書を読みすすめた。

www.heibonsha.co.jp

【付箋箇所】
22, 32, 48, 55, 60, 72, 75, 80, 82, 97, 99, 116, 123, 155, 160, 173, 180

目次:
第1章 悦楽の園
第2章 自然の罪
第3章 人間はいまだかつて楽園にいたことはなかった
第4章 神の森
第5章 楽園と人間本性
第6章 王国と楽園

異端者としてのアガンベン ―― 訳者あとがきにかえて 岡田温司

 

ジョルジョ・アガンベン
1942 -
岡田温司
1954 -
多賀健太郎
1974 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com