批評家安藤礼二の名前をはじめて意識したのは角川ソフィア文庫の鈴木大拙『華厳の研究』(2020年)の解説。ずいぶんしっかりした紹介をしてくれる人だなと気になって最近複数の作品にあたっていたが、折口信夫研究からの必然的な展開として新仏教家藤無染を経由して鈴木大拙に出会い西田幾多郎に出会うという形で本書『大拙』が書かれていることが解説の背景にはあるのだなということが知れた。
20世をまたぐ転換期の世に世界的な神秘主義、オカルティズム、新宗教の動きがあり、また社会主義国家成立を目指す運動が盛んになされているなかで、後進ではあるが新興大国として台頭しつつあった日本の、エリート街道からは外れていたがゆえに逆に激烈に海外思想や主流の国内メインストリームと対峙し思考せざるをえなかった鈴木大拙と、同級生で盟友たる西田幾多郎の歩みとの深い関係性を本書は丁寧に跡づけていく。
インド発の仏教とインド哲学の梵我一如、中国の大乗仏教で成立した『大乗起信論』あるいは天台如来蔵思想と老子の道徳教における道(タオ)からの個物の生成、日本では古来のアニミズムとも親和性をもつ空海の即身成仏と草木国土悉皆成仏天台本覚思想、といった明治期の日本近代思想環境の東洋側の論理をまとめあげ刷新するとともに、西洋側の神学や哲学、スウェーデンボルグやシュタイナーの神秘学を取り入れて、世界に向けて世界と渉り合える日本的思考を鍛え上げていく様子が、年代を追う形で丁寧に説かれていく。
日本における如来蔵思想を21世紀においても肯定することをひとつの狙いとして書き継いでいかれた本書は、鈴木大拙と西田幾多郎を通して宗教的実践と芸術的表現活動における神秘的合一のなかに現代的実践の可能性があると繰り返し説いている。
二人の友が、ともに見ようとしていたのは、無限と有限、神と人間という、絶対に相矛盾するもの、絶対に差異をもったものが、そうであるがゆえに「合一」する、すなわち「絶対矛盾的自己同一」の体験であり、「即非」の体験であった。その「合一」の瞬間、精神と物質、主観と客観、人間と森羅万象といったありとあらゆる区別が消滅してしまう。(中略)絶対に相矛盾しているがゆえの「即非」の体験、「合一」の体験は、宗教的な実践を通してしか可能にならない――これもまた二人とも声をそろえて、そうした宗教的な実践は芸術的な実践、芸術的な表現活動と区別をつけることができないと繰り返し表明している。
(第5章「戦争と霊性」p187-188)
鈴木大拙と西田幾多郎が語る合一は魅力的ではあるのだが、21世紀の世俗に生きる者としては最後の一歩で乗り切れないところがある。禅の体験をベースにしていることもあって過度に宗教的であり、無限あるいは神の側が過度に擬人化され限定化されているようにおもえるところがあるからだ。ブラフマンやタオはそれでもまだ個物を生み出す純粋な運動法則のようにも思えるのだが、神あるいは如来、仏、心といった言葉を使われると倫理ある擬人的世界観が優勢になっているように感ぜられてしまう。それだと物理学が教えてくれる物質や元素の生成や崩壊と同居することはなかなか難しい。たとえばプラズマ化した水素がその組成の大部分を占める太陽のような恒星においては、鉄よりも原子番号が大きい元素は、超新星爆発が起こって恒星が終焉を迎えなければ生成されないといったことは宗教的宇宙観と交差するとは考えにくい。ただ全面的に乗り切れない合一の宗教的思想であっても、それが芸術的表現と結びついているというところまではとても興味が湧く。人間的な宗教活動、信仰活動、信用ベースの活動という範囲内で、表現しえない全体あるいは無限と、限定された個としての表現が、奇蹟的に結びついて表現されているということであれば受け入れやすい。深淵をうかがわせる畏怖すべき表現、本質をうかがわせる驚異的でかつ過不足ない表現、世界が改まる新鮮な表現、そういった芸術であれば市井の人間でも受け入れやすい。そのような芸術的表現の神秘なき神秘性という方向に、鈴木大拙の弟子である民藝の柳宗悦と音楽のジョン・ケージが挙げられていることは、神秘的宗教家ともいえるだろう鈴木大拙と西田幾多郎との回路を最後まで開いてくれているようで、救いがあった。
【付箋箇所】
41, 45, 68, 126, 130, 155, 158, 170, 184, 187, 189, 209, 226, 235, 246, 270, 275, 282, 285, 292, 315, 319
目次:
第1章 インド
第2章 アメリカ
第3章 スエデンボルグ
第4章 ビアトリスと西田幾多郎
第5章 戦争と霊性
第6章 華厳
第7章 禅
第8章 芸術
安藤礼二
1967 -
鈴木大拙
1870 - 1966
西田幾多郎
1870 - 1945
参考: