バルトが1966年から1967年にかけて三度日本を訪れたことをきっかけに書かれた記号の国としての日本讃歌の書。
日本的とされるエクリチュール(書字、書法、表現法)の実体にとらわれない空虚さの自由度に感応したバルトの幻想紀行的小説風テクスト。
日本的空虚さに向き合った三島由紀夫がまだ生きていた時代(これを書いている私もまだうまれていない時代)に刊行された著作ということを考えるとバルトの著作にも時代を感じるが、日本を語っているようですべてがバルト自身の関心に向いていて、対象の真実を暴くというよりも、存在しているものから受ける肯定的な影響を最大限増幅するというような実験を行っている印象を受ける。
目立って取り上げられている俳句も文楽も、バルトの感性とともにひと時生気を帯びるだけで、定義し捕獲しようとはしないバルトの言説によっては本質的に影響も拘束も受けてはいない。バルトが念を押して言っているように、本書は日本についての本ではなく、エクリチュールについての本だというところからくるものでもあろう。
シニフィエ(意味するもの)の重さを逃れるシニフィアン(指し示すもの)の感応的横溢。内容物を強いない形式優位の軽さのたたずまい。日本人の側からはそれこそ無内容な桎梏と感じられもする場合もあるが、バルトは西欧的感覚から見た差異のみを軽く触れ、自分自身に引き受けているだけで、価値観を強要しようとはしていないことが文章から感じ取れる。
日本そのものではなく日本に触れたバルトとその限りでの日本が感じられるいわば歴史的な著作ととらえたほうが良い。
空虚の称揚も、仏教的空観を踏まえながら、表現のひとつの有意な権利として、あるものの生起を妨げず排除しないことに焦点をあてている。空は事物の中性のすがたをとらえるための枠組みであり、否定的に言われる無や無意味とは異なるものであることは注意したほうが良い。