読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

吉田武『虚数の情緒 中学生からの全方位独学法』(2000)

名著。虚数を通して量子力学の世界にも手引きしてくれていて、お得。先日科学哲学の入門書で何の説明もなしに出てきて困った「虚時間」や「ファインマン経路積分法」についても紹介があり、さらに興味付けもしてくれて大変ありがたい。千頁の大冊だが19年で31刷。いいものは重くてもそれなりに売れるということを実証してくれている。

【虚時間】

アインシュタイン相対性理論は、その名前とは裏腹に、「光の速度は、光源の運動とは関係なく、如何なる観測者から見ても不変である」という、光速度不変を”絶対視する”理論、即ち「光の絶対性理論」なのである。この前提から、質量や時間や空間といった、基本的な物理量もある種の変換を受ける。(中略)私達は、右に左に、空間内を自在に往来できるが、一方、時間は過去から未来への一方通行である。この不統一は虚時間の世界では一掃される。虚時間では、空間と同様に、自由自在に過去も未来も行き来することが出来る。如何に奇妙に見えようと、時間と空間を区別せず、対等に扱うのが相対性理論の主張であるから、虚時間をまったく無意味であるとして、簡単に捨て去ることはできないのである。(第七章「虚数:想像された数」7.6.4「時空の物理学:世界は虚数である」p513)

ファインマン経路積分法】

ハイゼンベルク不確定性原理は、量子力学の世界には、古典力学の如き「粒子の軌道」という概念が、成立しえないことを具体的に示したものである。然し、人間が考える為には具体性が必要である。如何に抽象的な概念であっても、それを初めて考えた人の頭の中には、具体的な対応物が存在していた筈である――”抽象的概念を抽象的に考える”などということが出来る筈がない。その意味で、”軌道の追放”を宣言したハイゼンベルク流の方法は、理論物理学者にとって頭痛の種であった。(中略)(ハイゼンベルク流の方法にもシュレディンガーの方法にも)どちらの手法にも馴染めなかったファインマンは、遂に”学ぶ”ことを諦めた。”作る”ことにしたのである。彼は、有名なディラック量子力学の教科書に刺激を受けて、古典的な軌道の考え方を復活させようと試みた。但し、それは「可能なすべての経路」という、これまでの物理学の歴史の中に登場した事の無い突拍子もない代物であった。(第12章「波と粒子の狭間で」p920-922)

 相対性理論量子力学の話を数学の教育者が日本語表現の技術だけで情報量を落とすことなく分かりやすく見事に伝えている。本書の凄さは、数式に依らずに理論の革新部分を伝えてしまう、著者の表現能力にあると思う。数学嫌いということだけで知らない世界が出来てしまうことを決して許さないという教育者の熱い魂が感じられ、読後には感動さえ湧き上がって来る。

最後に2000年当時最先端の知見であったであろう量子脳力学(Quantum Brain Dynamics)とそこで主張されている記憶のメカニズムを紹介してくれているところも刺激的。ベルクソンの『物質と記憶』あたりを持ち出してAIを語ったりされるよりも衝撃度が強い。


目次:
第I部 独りで考える為に
0章 方法序説:学問の散歩道
0.1 数学教育の問題点
 0.1.1 数学は積み重ねか
 0.1.2 数学は暗記科目か
 0.1.3 数学は役に立つか
0.2 選択の自由と個性
 0.2.1 選択の自由とは何か
 0.2.2 個性とは何か
 0.2.3 生き甲斐とは何か
0.3 子供とは如何なる存在か
 0.3.1 子供は無邪気か
 0.3.2 子供は自分をどう見ているか
 0.3.3 「民主主義」とは何か
0.4 文明と文化と
 0.4.1 読書の意味
 0.4.2 時代の表記法:干支と元号
0.5 「科学」と「技術」
 0.5.1 歴史小説と歴史年表
 0.5.2 狩猟民族としての科学者
 0.5.3 適性を見抜く
 0.5.4 高次のロマンを求めて
0.6 物理と数学の関係
 0.6.1 数式と記号:なぜ数式を用いるのか
 0.6.2 推論の道具として
 0.6.3 帰納と演繹
 0.6.4 特殊から一般へ
0.7 数学を敬遠するとどうなるか
 0.7.1 人を愉しませる文化
 0.7.2 無意味な区分け
 0.7.3 二分法を越えて
 0.7.4 マスコミの影響
 0.7.5 人文嫌いは何故生まれるか
 0.7.6 数学に挑む
0.8 知性の誕生
 0.8.1 宇宙の誕生
 0.8.2 物質の誕生
 0.8.3 星の誕生
 0.8.4 太陽、地球、そして生命の誕生
 0.8.5 人類の誕生
 0.8.6 文化の誕生
 0.8.7 我々は如何なる存在か
0.9 旅立ちの前に
 0.9.1 研究とは何か
 0.9.2 ものの見方
 0.9.3 過去の全人類の頭脳の集約として
 0.9.4 第一部の終りに

第II部 叩け電卓!掴め数学!
1章 自然数:数の始まり
1.1 すべては自然数から始まる
 1.1.1 素読の勧め
 1.1.2 計算の初め:九九
1.2 計算の規則
1.3 数の原子:素数
 1.3.1 素数素因数分解
 1.3.2 エラトステネスの篩
1.4 約数と倍数
 1.4.1 原子論
 1.4.2 数の原子論
1.5 奇数と偶数
1.6 空きの記号「0」
 1.6.1 記数法:10進数
 1.6.2 指数法則
 1.6.3 記数法:60進法
2章 整数:符号を持つ数
2.1 数としての「0」
2.2 自然数から整数へ
 2.2.1 整数の持つ方向性
 2.2.2 指数法則:整数の場合
 2.2.3 整数の濃度
2.3 暗算の秘術
 2.3.1 法則を探る
 2.3.2 式の展開と因数分解
2.4 パスカルの三角形
2.5 基本的な図形の持つ性質
 2.5.1 太陽光線と同位角
 2.5.2 三角形の内角の和
 2.5.3 地球を測った男
 2.5.4 図形の等式:合同とは何か
 2.5.5 図形の拡大と縮小:相似とは何か
2.6 三平方の定理
 2.6.1 ピタゴラス
 2.6.2 プリンプトンNo.322
2.7 フェルマー・ワイルスの定理
3章 有理数:比で表せる数
3.1 分数の加減乗除
 3.1.1 足し算・引き算
 3.1.2 掛け算・割り算
3.2 電卓のホラー表示
3.3 小数の種類
 3.3.1 有限小数無限小数
 3.3.2 循環小数の「新しい表現」
3.4 少数の表し方
 3.4.1 10進数の指数表記法
 3.4.2 2進数ととエジプトの数学
 3.4.3 2進小数
3.5 電卓の誤差
3.6 小数と分数:相互の変換
3.7 計算の精度
3.8 バビロニアン・テーブルの秘密
3.9 有理数の濃度
4章 無理数:比で表せない数
4.1 帰謬法の考え方
4.2 無理数と少数の関係
4.3 ギリシャの思想と無理数
 4.3.1 タレス
 4.3.2 ピタゴラス
 4.3.3 もう一つの粘土板
 4.3.4 プラトン
 4.3.5 洞窟の比喩とイデア論
4.4 平方根の大きさを見積る
4.5 無理数の居場所
4.6 無理数有理数の関係
 4.6.1 指数法則:有理数の場合
 4.6.2 無理数を近似する有理数
 4.6.3 指数法則:無理数の場合
4.7 数を聴く・音を数える
 4.7.1 ピタゴラス音律
 4.7.2 純正調音律
 4.7.3 十二平均律
4.8 無理数の「循環する表現」
5章 実数:連続な数
5.1 実数の連続性
 5.1.1 繰り返し計算の行き着く先
 5.1.2 数の減り方
5.2 実数の濃度
5.3 数と方程式
 5.3.1 式に関する用語
 5.3.2 一次方程式の解法
 5.3.3 方程式と関数
5.4 座標と関数のグラフ
 5.4.1 グラフと座標
 5.4.2 一次関数のグラフ
 5.4.3 連立方程式とグラフ
 5.4.4 座標の交換
5.5 等号の意味と怪しい用法
 5.5.1 等号の用法
 5.5.2 英文法と等号
5.6 実数の濃度と平面の濃度
6章 実数:拡張を待つ数
6.1 二次方程式
 6.1.1 根の公式
 6.1.2 誤差と相対誤差
6.2 円周率を求める
 6.2.1 三平方の定理と漸化式
 6.2.2 桁落ちを避ける
 6.2.3 角度と弧度
6.3 二次方程式と二次関数
 6.3.1 二次関数の最大値と最小値
 6.3.2 接線の傾きと極値
 6.3.3 関数の連鎖
 6.3.4 等積変形から反比例へ
6.4 平方根を四則から求める
6.5 美の論理と自然の神秘
 6.5.1 複写用紙の幾何学
 6.5.2 黄金分割
 6.5.3 見事な,余りにも見事な
 6.5.4 フィボナッチの数列
 6.5.5 黄金数とフィボナッチ数の精妙な関係
6.6 天才・アルキメデスの剛腕
 6.6.1 不世出の天才の業績
 6.6.2 取り尽くし法
 6.6.3 二段階帰謬法
7章 虚数:想像された数
7.1 虚数の誕生
7.2 数の多角形
 7.2.1 1のn乗根
 7.2.2 ガウス素数
 7.2.3 アイゼンシュタインの素数
7.3 二次方程式と確率
 7.3.1 サイコロの確率
 7.3.2 虚根の確率
7.4 誕生日と確率
 7.4.1 鳩の巣論法
 7.4.2 誕生日と鳩の巣
7.5 階乗と「いろは歌
7.6 虚数の情緒
 7.6.1 数学と感情 
 7.6.2 虚数への旅路を振り返る
 7.6.3 原子と光の物理学:万物は虚数である
 7.6.4 時空の物理学:世界は虚数である
 7.6.5 我々は虚数である
8章 指数の広がり
8.1 指数法則の復習
8.2 指数関数
8.3 指数関数の近似とネイピア数
 8.3.1 指数関数を近似する
 8.3.2 新しい定数
 8.3.3 近似式の威力
8.4 近似の程度を高める
8.5 指数関数の連鎖
8.6 指数関数の逆の関係
 8.6.1 指数法則の裏返し
 8.6.2 手動計算機を作ろう
9章 虚数の狭間:全数学の合流点
9.1 虚々実々なる関係
 9.1.1 eの虚数乗を求める
 9.1.2 虚数単位を指数で表す
 9.1.3 周期性を探る
 9.1.4 虚数虚数乗を求める
9.2 幾何学との関係
9.3 三角関係
9.4 オイラーの公式
9.5 オイラーの公式の応用
 9.5.1 指数法則の利用:加法定理の導出
 9.5.2. 三角関数の連鎖
9.6 三角関数の値の新しい系列
 9.6.1 1のn乗根の利用
 9.6.2 正多角形の利用
9.7 粘土板は古代の電卓か
9.8 何故「年代」が判るのか
 9.8.1 ミクロとマクロを繋ぐもの
 9.8.2 放射性同位体半減期
9.9 一つの旅を終えて

第III部 振子の科学
10章 物理学の出発点:力学
10.1 問題設定と実験の準備
 10.1.1 ゴジラの悩み
 10.1.2 振子を作る
10.2 基本的な事柄
 10.2.1 「静止」を考える:作用・反作用の法則
 10.2.2. 掌の上のボール:重さと質量
 10.2.3 振子の台を動かすと
 10.2.4 斜面の実験と慣性
10.3 運動に関する用語
10.4 ガリレイの探究
 10.4.1 斜面から落下へ
 10.4.2 重力加速度を測る
 10.4.3 落下の法則
 10.4.4 水準器と加速度計
 10.4.5 大自然の制約
10.5 ニュートン力学
 10.5.1 微積分の発見
 10.5.2 ニュートンの三法則
10.6 重さと質量とバネ秤
10.7 運動量の保存法則
 10.7.1 空間の一様性
 10.7.2 ロケットの推進原理
10.8 回転運動の基礎
 10.8.1 重力の中心:バットの重心を求める
 10.8.2 回転の基礎方程式
 10.8.3 「梃子」と「天秤」
10.9 エネルギーとは何か 
 10.9.1 仕事とエネルギー 
 10.9.2 力学的エネルギーの保存
10.10 温度と分子の運動
 10.10.1 経験的温度目盛
 10.10.2 気体分子運動論
10.11 相対論と三平方の定理
 10.11.1 「運動」を見る二つの立場
 10.11.2 動く座標の考え方
10.12 運動量保存則の応用:体育との関係
 10.12.1 野球:打撃用語の確立
 10.12.2 「壁」を調べる
 10.12.3 反射の法則:ビリヤード
 10.12.4 反射の法則:打撃への応用
 10.12.5 回転の中に隠された直線運動
10.13 音による打撃の解析
 10.13.1 「素振りの音」の物理学:順問題の解析
 10.13.2 「素振りの音」の物理学:逆問題の解析
11章 重力と振子の饗宴
11.1 調和振動子
 11.1.1 理想の振子
 11.1.2 調和振動子とその解
 11.1.3 線型方程式と数ベクトル
 11.1.4 曲芸的計算
 11.1.5 解を調べる
 11.1.6 古典力学因果律
11.2 実際の振子の運動
 11.2.1 振子を動かす力
 11.2.2 運動方程式と振子の周期
 11.2.3 振子による重力加速度の測定
 11.2.4 サイクロイド振子と橋渡し振子
11.3 振子の応用
 11.3.1 身体の中の「振子」
 11.3.2 現実の振子
 11.3.3 バットの振り心地
11.4 最短時間バット軌道
11.5 急がば回れトライアスロンと屈折率
11.6 様々な振子
 11.6.1 遅い振子:やじろべえ,逆さ振子
 11.6.2 速い振子:二本吊り振子
 11.6.3 連成振子:ブラックバーン振子
 11.6.4 減衰振子:ドア・クローザーと糖尿病
 11.6.5 強制振子:共振現象
 11.6.6 音の足し算:フーリエ級数
11.7 隠れた振子
 11.7.1 自励振動:はためく旗
 11.7.2 乗り物の自立安定性に就いて
 11.7.3 反撥係数と 「送りバント
 11.7.4 パラメータ励振:揺れるブランコ
11.8 宇宙へ誘う振子
 11.8.1 ナイルの曲線
 11.8.2 フーコーの振子
12章 波と粒子の狭間で
12.1 波動方程式
 12.1.1 波とは何か
 12.1.2 波動方程式を求める
 12.1.3 弦の運動
12.2 干渉と回析
 12.2.1 波の干渉
 12.2.2 波と複素ベクトル
 12.2.3 二つのスリット
 12.2.4 回析格子
 12.2.5 「一つのスリット」での回析
 12.2.6 ヤングの実験の解析
12.3 光学と電磁気学
 12.3.1 マックスウェル方程式
 12.3.2 光の歴史
 12.3.3 量子の革命
12.4 量子力学の基礎
 12.4.1 文学部卒・ノーベル物理学賞受賞
 12.4.2 シュレーディンガー方程式の発見的導出
 12.4.3 基本粒子の世界
 12.4.4 不確定性原理
 12.4.5 交換関係
 12.4.6 波動関数とは何か
12.5 電磁場の量子化
 12.5.1 量子力学に於ける振子
 12.5.2 演算子の計算
 12.5.3 場から粒子へ
12.6 径路の魔術:量子電磁力学
 12.6.1 君は何処からやって来たのか
 12.6.2 光は何故その場所を知っているのか
 12.6.3 光は本当にすべての径路を通っているのか
 12.6.4 光は真っ直ぐ進まない
 12.6.5 踊る光子の不思議な絵
12.7 場の量子論:そして「量子脳力学」へ
 12.7.1 場の量子論の誕生
 12.7.2 「場」と「真空」
 12.7.3 ボソンとフェルミオン
 12.7.4 「自発的対称性の破れ」とは何か
 12.7.5 南部・ゴールドストーン粒子
 12.7.6 脳の機能:記憶の物理理論
 12.7.7 量子脳力学
 12.7.8 「フェルミオン思考」から「ボソン思考」へ
 12.7.9 若きハムレット達に捧げる

東海大学出版部|書籍詳細>虚数の情緒


吉田武
1956 -

ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(原書1981,訳書1994)に学ぶ「心身並行論」

ドゥルーズスピノザの心身並行論に関して、身体の導入による意識の評価切り下げという視点を提示し、意識にならない無意識的な領域の存在を浮上させる。

この心身並行論の実践的な意義は、意識によって情念〔心の受動〕を制しようとする<道徳的倫理観(モラル)>がこれまでその根拠としてきた原理を、それがくつがえしてしまうところに現れる。(中略)意識はもともと錯覚を起こしやすくできている。その本性上、意識は結果は手にするが、原因は知らずにいるからだ。(「道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて」p29-30) 

 意識は思惟や精神よりも守備範囲が狭い。意識がそのままで手にできる結果だけにとどまらず、知性によって結果をもたらす原因や生成の部分に触れ、その領域を自覚すること。それによって、世界に自動的に働いている秩序、無限の実体に発する秩序に連なることを認識するという過程に眼を向ける。そして意識という混乱の層自体はそのすがたのまま認識しつつ、その層がもつ軛からは抜けでるべきである。そういったところがスピノザの思想の方向性であるようだ。生成の部分にあるのは無限の実体に発する自動機械的に働く秩序であり、それは個物に偏在している。そして、そのことが心身並行論の基盤をなしている。

精神と同様、個々の身体にはその身体の個的・特異的な本質というものがある。そうした身体の本質は、たしかに、その精神の本質をなす観念(私たち自身のありようとしての観念)によって表現されるものとしてしか現れてこない。(第4章 『エチカ』主要概念集「精神と身体(心身並行論)」p129) 

 

すべての観念は、それらが自身の原因を表現し、かつ私たちの理解する力能によっておのずから開展〔=説明〕されるかぎりにおいて、神の観念を出発点として互いに連結しあうのである。精神が「一種の精神的自動機械」であるといわれるのもそのためだ。(第4章 『エチカ』主要概念集「方法」p173)

 

意識の層には上がらない自動的な働きを本来とする精神、あるいは諸観念の秩序が、すべての個物には存在する。そのような説ならば、精神偏在論とも捉えられる心身並行論も、心をあまりざわつかせることなく受け入れていることが出来る。

  

※引用は単行本のページ数なので、平凡社ライブラリー版とは違いがあるかも知れません。

 

目次:
第1章 スピノザの生涯
第2章 道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて
第3章 悪についての手紙(ブレイエンベルフとの往復書管)
第4章 『エチカ』主要概念集
第5章 スピノザの思想的発展(『知性改善論』の未完成について)
第6章 スピノザと私たち

www.heibonsha.co.jp

スピノザ
1632 - 1677
ジル・ドゥルーズ
1925 - 1995
鈴木雅大
1949 -

スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』で境界のない世界像に触れる

スピノザ二十七、八歳、後の『エチカ』に直結する論文。スピノザにとって神以外に存在はない。この「神即自然」の認識は例えば次の如く語られる。

神は内在的原因であって超越的原因でない。なぜなら神は一切を自己自身のうちに生じ自己の外に生じないからである。神の外には何ものも存在しないのであるから。(第三章「神の内在的作用について」p86)

 この世界に外部はない。内部と外部を分ける境界があれば境界を含むより大きな場が必然的に想像されるから、それは無限の実体ではない。ここまでについては一般的な考え方でもついていける。しかし無限の実体の観念から演繹した結果として出て来るスピノザの世界像は、そう容易には理解できないものである。

部分とか全体とかは真の有乃至実的有ではなくて単に理性の有に過ぎない。従って自然の中には全体も部分も存しない。(第二章「神とは何か」p71)

 畠中尚志の訳注によると「理性の有」というのは、「思惟の様態に過ぎぬ物、思惟する精神の外に実在しない物」をいうスコラ学派の用語ということらしい。

自然に於ける部分に関しては、分割なるものは、既に述べたように、決して実体自身の中には起こらず、常にただ実体の様態の中にのみ起ると我々は主張する。(中略)分割乃至受動は常に様態の中にのみ起る。例えば人間が消滅する或は亡ぼされると我々が言う時、それは有限な一合性物であり実体の一様態である限りに於いての人間をのみ眼中に置いているのであって、人間の依存する実体を眼中に置いているのではない。その上、我々が既に述べもし又これから後でも繰り返すだろうように、神の外には何物も存しないのであり、又神は内在的原因なのである。ところで能動者と受動者が異なる様な場合は受動は明白な不完全性を意味する。その場合受動者は外部から受動をもたらしたものに必然的に依存せねばならぬからである。かかることは完全者たる神に於いては生ずることが出来ない。(第二章「神とは何か」p73)

 スピノザは実体と実体の様態を厳密に区別している。そこが理解の分かれ目となるだろう。神は実体でわれわれ人間は実体の様態である。そこはきちんと分けて考えなければならない。様態に「理性の有」としての全体や部分を見ているだけで、実体には部分も全体もない。ここまでは仮に理解し納得できたと仮定してみることも可能だ。しかし、次の精神についての認識の前には足を止める。スピノザは無機物も有機物も有情も非情もいっさい区別なく精神を持つという。精神の有無では物のあいだに違いは認められない。この認識をベースに語られるのがスピノザの心身合一なのであるが、にわかには受け入れがたい。しかし私はスピノザ好きなので単に受け入れてしまいたいという誘惑にも駆られる。

精神は思惟するものの中にある観念であって、自然の中にある事物の現実的存在から発生する、と。この帰結として、事物の持続と変化に応じて精神の持続と変化も生ぜねばならぬということになる。尚、その際我々の認めたところに依れば、精神は身体と―自らがその観念であるところの身体と―合一することも出来るし、又神と―自らが存在するにも理解されるにも欠くべからざるものであるところの神と―合一することも出来る。(第二十三章「精神の不滅について」p194)

 

精神の本質はただ次の点にのみ、即ち、自然の中に現実に存在する或る客体の本質から思惟の属性の中に発生する観念(即ち想念的本質)の存在という点にのみある。私は「現実に存在する或る客体の」云々とのみ言ってそれ以上の特殊な条件を付けない。これに依って、この中に延長の様態だけでなく〔自余の〕すべての無限なる属性の様態をも含めんがためである。これらのものも亦延長の場合に於けると同様に精神を有するのだから。(第二付録「人間の精神について」p215)

 

徹底的に脱色されて語られたところの神秘。でも、展開していくとはなはだ危険な話になりうるし、どんなSFやホラーよりも怖いともいえる。逆に境界がないのだから何ひとつ怖くも危険でもない話と捉えることも出来る。精神のありようが身体の変容とともに変わっただけのこと、物体の運動と静止の割合が変わってみただけのこと、と言ってはみても、すべての物に精神があるという考えには、やはり慣れはしない。

第二部「人間 並びに人間に属するものについて」の序言におけるスピノザの注記。

四、完全なる思惟は、現実的に存在するありとあらゆる物について―実体についても様態についても例外なく―認識、観念、思惟様態を有せねばならぬ。
五、我々は「現実に存在する」という。何故なら、ここで我々は、あらゆる物の本性をその個別的存在とかかわりなくその本質との連結に於て完全に知るところの認識、観念等について語っているのではなく、その都度都度存在して来る個々物の認識、観念等ついてのみ語っているのだからである。
六、現実的に存在する各の個物についてのこの認識、観念等は、我々の見解に依れば、その個物の精神なのである。
七、現実に存在するありとあらゆる個物は運動と静止とに依ってそうしたものになる。そしてこのことは我々が物体と名づける実体的延長のすべての様態についてあてはまる。
八、これらのものに見られる相違性はただ運動と静止の異なれる割合からのみ生じ、それに依ってこれこのようであってあのようでなく、又これこれであってあれでないということになる。
九、運動と静止のこうした割合から我々のこの身体の現実的存在も出てくるのである。そしてこの身体についても(他のすべての事物についてと同じく)思惟するものの中に認識や観念が存在せねばならぬ。これが我々の観念、認識、ひいては我々の精神なのである。

十、然し我々のこの身体は、まだ胎児だった時には運動と静止の異なれる割合にあったし、又後で我々が死ぬ時にはもっと別な割合にあるであろう。しかしそれにもかかわらずかつて〔生前〕も又後で〔死後〕も、現在と同様、思惟するものの中に我々の身体の観念や認識があったし又あるであろう。しかし決して同一〔観念や認識〕ではない。何故なら身体は現在運動と静止とに関して異なれる割合にあるのであるから。

観念、認識、精神というものをよりスピノザの体系のなかで理解できるようになれば、もっと腑に落ちるようになるだろうか。現代の研究者の力も借りてもうすこし進んでみたい。

 

もし、スピノザが現在を生きているとしたら、どんな論文を書くのだろうか? 現在までの科学的知見を取り込んで、どのように論をブラッシュアップさせるのか? どのような神即自然が語られるのか? ものすごい興味深く思われる。

※引用文は実際は旧字旧仮名。太字は傍点。

 

www.iwanami.co.jp

スピノザ
1632 - 1677
畠中尚志
1899 - 1980

アラン『スピノザに倣いて』(原書1901, 1949 訳書1994)

アラン35歳の時の処女作。後年の縦横無尽なエッセイを予感させるものの、まだ生硬さがのこるはじまりの書。スピノザの心身合一説を敷衍した箇所はアランの本質を成すしなやかさがすでに垣間見えている。

われわれがもっている外的物体の観念は、外的物体の本性というよりもむしろ、われわれ自身の身体の構造を言い表している。たとえば、或る熱病者がぶどう酒の苦さを知覚するとき、この知覚が彼に教えているのは、飲んでいるぶどう酒の本質というよりもむしろ、彼自身の状態である。
したがってわれわれの魂は、現前しない物体を、現前するかのごとく観想することができるだろう。そのためには、この物体の本性を内包するわれわれの身体の変様は、もし物体がなくても、生じるために十分であろう。それは可能である。なぜなら、われわれの身体のすべての変様は運動の変化であり、すべての運動の変化は物体の弱い部分に痕跡を残すからである。そしてこの変化は、物体の運動そのものの結果、すなわち物体が生きている結果、生まれるのである。(中略)
現前しない対象を現前するものとして表象することは想像である。それ自身において考えられた、この類の想像は、いかなる誤謬をも含んでいないことを指摘するのは的を射たものである。誤謬はただ、われわれが想像している物体がないことを知らないことから出てくるのである。実際、もしそれがないことを知っているならば、それが現前しなくても、それを表象することは、われわれの弱さというよりもむしろ、われわれの力のしるしであろう。(第二章「神と魂について」p58-59)

直截の引用をほとんどすることなくアランによって変奏されるスピノザの思想は、しなやかに上品にコーティングされている。

 

目次:
スピノザの生涯とその著作
スピノザの哲学
第一章 反省的方法
第二章 神と魂について
第三章 感情と情念について
第四章 人間の隷属について
第五章 理性について
第六章 自由と至福について

www.heibonsha.co.jp

アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)
1868 - 1951
スピノザ
1632 - 1677
神谷幹夫
1948 -

森田邦久『理系人に役立つ科学哲学』(2010)

実用的な科学哲学入門書。理系研究者が実際の研究をするにあたって知っておくべき科学哲学がコンパクトにまとまっている。文系の人間にも読めないわけではないが、各トピックに顔を出す科学理論については知らないことが多い。虚時間って何? 未知の世界の端にふれて、すこしドキドキできる。

量子力学の形式のひとつとして、ファインマンによる経路積分法あるが、この形式では、ポテンシャルの壁をトンネルする量子は形式上、虚時間中を運動することになる。そして、物理学者のアレキサンダー・ビレンキンによると、宇宙は無の状態からトンネル効果によって生まれたという。すると、宇宙は虚時間で始まったことになる。また、スティーヴン・ホーキングもやはり、無境界仮説によって無からの宇宙の生成を提唱しているが、ここでも(特異点を避けるために)虚時間が重要となる。これら宇宙創成のシナリオにあらわれる虚時間が、たんなる計算の便宜のためのものか、なにか「虚時間」には深い意味があるのかも、哲学的には興味深いところである。(「量子力学の哲学」p215)

 文系人間として本書のなかで一番反応するのは「観察の理論負荷性」、「パラダイムとその共約不可能性」「社会構成主義」だろうか。そのなかでもとりわけ刺激的だったのはイアン・ハッキングを引用した「社会構成主義」のページ。

科学的知識が現在のような形であるのは、決して不可避なものではなく、別の形でもありえた。科学知識が現在のような形であるのは、社会的な出来事や力によるものである。(「科学の発展」p71)

 そして、具体例として挙げられているのが、こちら。

たとえば、超高速のスーパーコンピュータが1850年までには実用化されていたとしよう。その場合、マクスウェル方程式で用いられているような微積分学はそもそも不要となっていたはずだ(解析的にではなく、数値計算によって微積分に代わる計算ができるから)。すると、それにもとづいたマクスウェル方程式も存在しないことになる。それゆえ、われわれはマクスウェル方程式を迂回して物理学を発展させることが可能だったことになるのだ。(「科学の発展」p72)

別の物理学を持った可能世界! 科学哲学を通して数学と科学に興味を持つという方向性が今回出てきた。データサイエンス系の数学教科書をいくつか読んでみても、いまひとつ面白さを感じられなくてしょんぼりしていたところだが、科学哲学入口で数学と科学をすこし補給したい気分になった。

 

目次:
◆Ⅰ部 科学の基礎を哲学する
1.科学と推論:科学で使う推論は問題だらけ?
2.科学の条件:科学と非科学はどう分けられるのか?
3.科学と反証:科学理論は反証できない?
4.科学の発展:どんな科学理論が生き残るのか?
5.科学と実在:原子って本当にあるの?
◆Ⅱ部 科学で使われる概念を見直す
6.説明とはなにか:説明を説明するのは難しい?
7.原因とはなにか:本当の原因はなに?
8.法則とはなにか:法則はなぜ法則なのか?
9.確率とはなにか:確率は主観的なものか客観的なものか?
10.理論とはなにか:科学理論はうそをつく?
◆Ⅲ部 現代科学がかかえる哲学的問題を知る
11.量子力学の哲学:ミクロな世界は非常識?
12.生物学の哲学:進化論は科学か?

www.kagakudojin.co.jp

 

森田邦久
1971 -

中西進編『大伴家持 人と作品』(1985 桜楓社)

大伴家持没後1200年の記念出版本。研究者七名による紹介と、年譜、口訳付大伴家持全歌集からなる。本書を通して読んでみると、大伴家持はどちらかというと長歌の人なのではないかと思わされた。それから官僚としてしっかりと務めを果たした人でもあったのだなという印象を持った。

憶良を家持は慕う。僻地の政治家として過酷な風土の下に生きる民を視、東大寺開田をめぐって在地有力者と土地問題で話し合わねばならぬ家持には、現実に密着した文学が、思想として求められたのではないか。「白雪忽ちに降りて、地に積むこと尺余なり。この時に、漁夫の船、海に入り瀾(なみ)に浮かぶ」(巻十七 3961注)という視点、芦附という食料を採ったり、水を汲んだりする生活の中の少女を見る眼、「小旱越りて、百姓の田畝稍(でんぽやくや)く凋(しぼ)める色あり」(巻十八 4122序)と眼を向ける家持。三綱五教を示して倍俗先生を批判する憶良と同様に、家持も法律を引いて遊行女婦を愛人とする史生を諭す歌(巻十八 4106-4109)を詠む。
家持の文学思想の根底には、憶良と同一の詩言之説、政教主義思想があるのではないか。ただそれを直截に「貧窮問答歌」として歌うか、「言挙げせずとも年は栄えむ」と表現するかの違いはある。その違いをもたらした原因について、ここで述べる余裕はないのだが、その思想の存在ゆえにこそ、家持歌は繊細な感情を持つとか、憂愁を含むとか、孤独感が在るとか評されるのである。(「越中時代の生涯」p96-97)

おもえば菅原道真紀貫之も真面目な官僚で、地方長官職時代に庶民の姿を見て詩の世界を大きくしていた。誠実さって大事なんだなとあらためて思った。

 

【口訳付大伴家持全歌集で私がチェックした歌】
和歌: 473, 4161, 4199, 4290
長歌: 4166, 4266, 4465

 

【付箋箇所】
4, 26, 29, 52, 96, 149

目次:
はじめに
青春時代の生涯  中川幸廣
   秀歌鑑賞  高野公彦
越中時代の生涯  山口博
   秀歌鑑賞  岡井隆
越中以後の生涯  川口常孝
   秀歌鑑賞  中西進
万葉以後の生涯  扇畑忠雄
大伴家持関係年譜 友尾豊
口訳付大伴家持全歌集 尾崎暢殃・針原孝之
   
大伴家持
718 - 785

山本健吉『大伴家持』(1971)

安心の山本健吉。幅広い知識をベースに一流の鑑賞を披露してくれている。
 
【歌語に対する考察】

万葉の挽歌では、「死ぬ」という言葉を絶対に使わない。信仰的には、死は死ではなく、甦りだという考え方があった。「天知らす」「雲隠る」「過ぐ」「罷る」「家離る」「こやす」その他の表現を使う。死者を生けるものとみなしての表現であり、しかも死者の逆戻りを避けるために、なだめつすかしつして、死者に死の意識を持たせようとする。(「寿は知らず―安積皇子への挽歌」p134)

白栲(しろたへ)に舎人装束(よそ)ひて、和束山御輿立たして、ひさかたの天知らしぬれ。(巻三 475)


「天知らす」につづいて「知る」という語の解説についても目が引きつけられる。歌が歌われた時代の語の感触を鮮やかに伝え、歌の情趣を現代の人間にもよりよく味あわせてくれている。

家持が二十歳ではじめての妾を亡くしたとき、彼は父旅人の大伴郎女に捧げた挽歌にならって、悲しみをうたい上げようとする。そしてまず、旅人が「世の中は空しきものと知る時し」とうたったのに学んで、「うつせみの世は常なしと知るものを」と詠むのである。どちらも「知る」と言っていることが、注目される。単なる感情ではなく、感性を通しての認識なのである。(中略)平安時代になって、「もののあはれ」についても、最も早い二つの用例を残している紀貫之の場合、いずれも「もののあはれを知る」という使い方をしている。最も情緒的に、感ずべき対象も、実は知るべきものなのである。頭でなく心で、あるいは魂で、そのものの最も深い本質にまで届くことを、「知る」と言ったのだ。(「窈窕淑女―亡妾を悲傷びて」p74-75)

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり (巻五 793)
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも (巻三 465)


見事な分析に、ページから目を離すとぼーっとなる。文学が生気を持っていた時代には一般書でこのレベルの書籍が結構出ていたのだと考えると、しばらく放心する。

 

【大伴家と家持の位置について】

家持は、反藤原でなく、反体制、反律令制なのだ。新しい官僚機構に徹底的になじみえない人間である。心情的に膚に合わないのだ。官僚制度がいやおうなく人間性を害い、非人間化することによってのみ官僚エリートとしての実を発揮出来る、その仕組みの中に甘んじて生きることの出来ない人間である。それは家持の意識の古さだが、当時もっとも新しい教養を身につけても、消すことの出来ない彼の意識の奥底に、それは根を据えている。彼の天皇への親近感は、その奥底あたりにつながっている。彼が歌を作るのも、その奥底のあたりにつながっている。(「大伴の氏と名―家持の孤立」p237)

 

大伴家持について書かれている文章をいくつか読んできた中で、本書はようやく家持の像を鮮明に結ばせてくれた。家を背負う誠実かつ現実的な感傷詩人。官僚制に馴染むことのできなかった反時代的な感性の持ち主。これで、他の家持像にもすこしは落ち着いて対峙することができそうな気がする。

 

【メモ:付箋位置】筑摩書房 日本詩人選5『大伴家持
22, 45, 75, 82, 93, 106, 117, 127, 147, 160, 169, 174, 183, 237

 

目次:
幼年時代
少年時代
橘家の饗宴
窈窕淑女―亡妾を悲傷びて
靭懸くる伴緒―大伴家の歴史
欝結の緒
寿は知らず―安積皇子への挽歌
晩蝉の歌―孤りごころ
否にはあらず―笠女郎、紀女郎を中心に
つかさびと家持
海行かば―内兵の誇り
樹下美人―憂鬱と倦怠と
悽惆の意―詩の頂点
移りゆく時―心疼く回想
大伴の氏と名―家持の孤立
虚空に消えた声―万葉末期の政治と人間
あとがき


山本健吉
1907 - 1988
大伴家持
718 - 785